生きるということ
朝井リョウの「どうしても生きてる」を読んだ。
死んでしまいたい、と思うとき、そこに明確な理由はない。心は答え合わせなどできない。『健やかな論理』
家庭、仕事、夢、過去、現在、未来。どこに向かって立てば、生きることに対して後ろめたくなくいられるのだろう。『流転』
あなたが見下してバカにしているものが、私の命を引き延ばしている。『七分二十四秒目へ』
社会は変わるべきだけど、今の生活は変えられない。だから考えることをやめました。『風が吹いたとて』
尊敬する上司のSM動画が流出した。本当の痛みの在り処が映されているような気がした。『そんなの痛いに決まってる』
性別、容姿、家庭環境。生まれたときに引かされる籤は、どんな枝にも結べない。『籤』
「どうしても生きてる」は、6つの物語からなる短編集だ。どの物語も、人が人らしく生きていく中で、一度は感じたことのある感情を引き伸ばされたような、共感と呵責が渦巻くこれぞ朝井リョウ!と唸るものだった。
私は読みながら、朝井さん~~~~~!なんでそんなにシビアなの~~~~~!と泣きつきたくなった。けれど、私は彼の小説を読むたびに痛い所を突かれて瀕死状態になっても、これを読まずにいたままの方が恐ろしいと思わされるし、だからこそ辛いとわかっていてもやめられない。
朝井さんはそこら辺に転がっている、でも人々が見てみぬふりをしている感情を丁寧に拾って、変に脚色せずありのままの現実を突きつけてくるような文章を書かれるなぁといつも思う。
「どうしても生きてる」の中で、私の心に特に刺さったのは『風が吹いたとて』と『籤』だ。
自分の誠実さに酔うのは、目の前の話を片付けてからにして。
何もしないということで、誰かが破ったルールの上を、快適に歩いている。
それがいけないことだなんて知ってる。気づいてる。でも、考えなければならないことでぎゅうぎゅうづめの明日が、すぐ目の前に迫っている。自分はこんなにも醜いのだ、ということを明かしたところで、本当は何の区切りもつかない。なぜ、吐露した側はそこで悦に入ることができるのだろう。こんなにも醜い部分を曝け出せたという点を、自分の強さ、誠実さだと変換して勘違いできるのはどうしてだろう。そして、さもその1秒後から新たな自分が始まるとでも思っているらしいことも、不思議だ。
ドキッとした。私は私の誠実であろうとする態度に酔って、他人のことなんか考えられないほど余裕のない人にまでこの世の不条理に対する議論や倫理観を押し付けてはいないだろうか、と。
そういう意味では、私はとても恵まれていると思う。実家暮らしで、結婚もせず子どもがいるわけでもない。仕事も一日に何時間か働くだけでさして重労働ではないし、休みもきちんと取れて睡眠も食事も健康的に取れている。趣味の時間も確保できていて、物事について哲学的に考える余裕もある。
自分が感じたことをまとめただけの、こんなブログを書くくらいの余裕は、確かにあるのだ。
誰もが自分と同じように考えられるわけではないのだ、と突きつけられた感覚がした。当たり前のことなのに、自分の考えを理解してもらいたい気持ちでいっぱいで、意識はするものの事実読み手聞き手の立場や気持ちまで考えが及ばなかった。
つい先日BFとジェンダー問題の記事で相手の立場に寄り添う姿勢が大切だと偉そうに書いていたくせに、痛い所を突かれないとわからない。結局私という人間はその程度のものなのだ。
あぁ、また朝井さんに救われたな、と思った。
『籤』では、人生のハズレくじを引いた人物の心境が細密に描かれている。自分の力ではどうにもできない選択肢を選ばざるを得なかった人たちの、それでもその道で生きなければならない心境が。
私は、これらのハズレくじは人々が抱えている呪いと似ているな、と思った。
この世には、目に見えない呪いがたくさん存在していると思う。『籤』の主人公みのりにとってそれは、女の子だからという理由でサッカークラブに入れなかったこと、同じ顔立ちなのに双子の兄は凛々しいと言われ自分はゴリラと言われたこと、進路も家での役割も兄に選択肢を奪われたこと、確率の低いはずの不運に見舞われること、これらが重なり夢も希望も諦めて生きることに慣れてしまったことだと思う。
呪いについて考えるとき、私は学童で関わっている子どもたちのことを想う。私が今学童で働いていて感じることは親(家庭環境も含む)から子への呪縛が少なからず皆あることと、それが潜在的にその子の生き方になっているということ。問題を起こす子も、そうでない子も、皆。
それは、みのりが兄に選択肢を奪われたように、母親のいない生活を受け入れざるを得なかったように、それぞれが抱える抗えないハズレくじのような呪いだ。親や兄弟の都合で学童に入れられた子、自分に求められた役割を考える前に受け入れている子、グレーゾーンも含め特別な支援を必要とする子、本当にいろんな子があそこには集まっているなと感じる。
学童という場所で働きだしてから、余計に自分自身の過去やこれまでの人格形成について考えることが多くなったように思う。事実、私も小学生の頃学童にお世話になった身であるし、当時の自分と似たような境遇にある子どもたちが学童には少なくない。だからこそ共感し、自分の過去とリンクさせてしまい、考えることが増えたような気がする。
私が社会や親から引き継いだ呪いは
「人に迷惑をかけてはいけない呪い」
「無責任に子どもを産んではいけない呪い」
他にも大なり小なり呪いはあるが、今でも強い影響力があるのは特にこの二つだと思う。
「人に迷惑をかけてはいけない」
その言葉は物心ついた頃から、忘れっぽい私でも古い記憶の中に残っているもので、たぶん耳にタコができるほど言われてきた言葉だ。
私の育児、家庭での教育は祖母が主にしてくれていた。祖母は大変厳格かつ真面目な人で、よくこの言葉を私にかけていたと思う。
そうして育った私は今その言葉に縛られ、迷惑をかける人を許せなくなり、私自身も迷惑をかけてしまうことに強い罪悪感と自己嫌悪感を抱くようになり、果ては無意識のうちに他者にまでその基準を当てはめてしまう呪いを抱えてしまっている。ハズレくじで言うならば、「人に迷惑をかけたら責められる」くじだろうか。この"責められる"というのは、記憶の中の祖母から、そして無意識の領域にいる迷惑を許せない自分自身から責められることを指す。
極限まで人に迷惑をかけないように生きようとすると、結局人と関わらないのが一番効率的だし確実で。自分の浅はかな言動によって誰かが傷ついたり不快な思いをするくらいなら、初めから誰とも交流しないのが最適解ではないか。
そうして自分の卑小な本性を出さないように限られた相手以外には心を許さないし警戒するし神経質になる。友人に対しても常に気を遣い、本当の意味で何も気にせずリラックスできるのは一人でいる時間だけになる。
もし、「人に迷惑をかけてもいいが、自分が迷惑だと感じても相手を許すのだよ」と教えられていたら、今どうなっていたのだろう、と考える。
育児や教育に絶対的な正解はないとはいえ、そうでなかった道を考えてしまうのは愚かな人間の性だろうか。
そして無責任に子どもを産んではいけない呪い、これは私ひとりではどうしようもない呪いなので半ば諦めているものだ。
両親に望まれず産まれたこと、実母に育児放棄されたこと、どう足掻いても変えようのない事実から放たれた呪いの強さは年々私を縛りつけているような気がする。そして、精神的につらくなると毎回必ず「生まれてこなければよかった」に帰着する。
この呪いは、無責任に産んでおいてこの世界での苦しみは押し付けたまま放置なのか、という親への恨みでもあり、自分は親のようには決してならないという復讐なのだろうと感じている。そしてそんな真っ黒な感情を理論という盾で覆いながら他者にまでぶつけてしまっている。だけど本当にこれ以上自分と同じように苦しむ子どもを増やしたくないのだ。どうしたらいいんだ私は。
私だって、「自分が母親になったら我が子にしてあげたいこと」みたいな幻想は昔から持っていたし、今でも素敵な本や音楽に出会ったら子どもたちにもこの世界の素晴らしい文化を伝えたいなとか、自分が子育てするならこうしたいなとか想像したりすることがある。でもだからといって本気で産もうとか本気で自分の子を育てようと考えるのは難しく、理想と現実の壁は大きいしキラキラしたことだけではないからこそ責任を持てない。そしてやはり最後まで責任を持てないのなら始めるべきではないと思ってしまう。第二の"私"を産み出したくない、という気持ちが私の心を支配する。
生まれ変わったらこんな私でも良い母親になれるのだろうか。私が引いたハズレくじに書かれていた「家庭円満を知らない人生」の文字は、いつしか母親になることを諦めさせた。
それとも女として産まれたなら母親になるのが自然という価値観に私も未だに縛られているだけなのだろうか。
20歳頃までは「他者(とりわけ男性)に好まれる外見や中身でないと愛されない呪い」も持っていたけれど、様々な本や呪いを解いてくれる人たちの影響を受けながら、時間をかけてそれはほとんど解消できたと思っている。
もしもこの先、あの強い呪いたちを解くきっかけがあって、時間をかけて解けたとしたら、その時初めて本気で迷惑をかけてでも人と繋がることや子どもを産んで育てることについて考え始めるスタートラインに立てるのかなと思う。
コンプレックスというものは、裏を返せばその人が一番関心を持っているということだし、その事柄について正しい知識や自分を守る情報を得ることで呪いを少しずつ解いていけたらいいなと思うのだ。
そういう意味でも、私は哲学に興味があるし、性教育にも関心を持って少しずつ、学んでいるところだ。
生まれてきて良かったと思うことはほとんどないけれど、私が学び感じたことを発信することで誰かの心に響いたり、誰かの救いになったなら、それが一番生きてて良かったと思えることなのだろうなとぼんやり思う。
私はこれから先も、たぶん何も成し遂げないし社会的な何かを手に入れることはない気がする。けれども、何も持たない方がいつ死んでも未練がないから気が楽だ。私の呪いは、責任を持って私自身で墓場まで持っていこう。
今はただ、私の呪いのせいで誰かを傷つけたりしないように、慎重に生きていきたいなと思う。
アッシュは「死を恐れたことはない、だが死にたいと思ったこともない」と言っていたけれど、私はずっと死んだ方が楽だと思って生きてきた。それでも、死ぬ勇気もなければ死ぬ努力もしなかった。中途半端なままなんとなくここまで生きてきてしまった。死にたくなるような出来事が起きても、それでも生きてきた。
今の私は読書が好きで、考察することが好きで、文章を書くことが好きだ。そうすることが私にとって"生きてる"と実感できることのような気がする。
このブログは私の思考そのものだし、私の魂と言っても過言ではない。魂とは、肉体に宿るものではなく、思想や言葉に宿るものだと思っている。
何も考えられなくなったとき、私にとってそれは死ぬことと同義なのだと思う。だから考え続けている限りは、私はどうしても生きてるのだろう。
BANANA FISHで感じるジェンダーギャップと人間学について
「BANANA FISH」は1985年から1994年まで、別冊少女コミック(小学館)にて連載された作品。1985年のニューヨークを舞台に、ストリートキッズのボスであるアッシュと日本人の少年・英二が、非合法薬物“バナナフィッシュ”の謎を追う姿を描いている。黄色のカバーが目を引くフラワーコミックス版は全19巻が刊行されており、単行本の売り上げは累計1100万部以上を記録。現在は小学館文庫から全11巻の単行本と外伝1巻が発売されている。
バナナフィッシュにハマった。
2020年も2/3が過ぎる頃、たまたまレンタルショップでアニメのDVDを見かけ、以前からちょっと気になっていたな~ぐらいの軽い気持ちで借りて見始めた。
結論で言えば、私はのめり込むように見入り2日でアニメ24話分を完走し、そのままの勢いで原作コミックス復刻版を全巻大人買い、そして番外編も含めコミックス20巻分の物語を読み込んだ。
この記事を書いている時点でも、まだ私がバナナフィッシュを”知って”しまってから2週間ほどしか経っていないのだが、今のこの荒ぶる感情を記録に残しておきたいという衝動に駆られ、他にも書きたかった内容を無視して今これを書いている。
バナナフィッシュとの出会いは私の今後の人生に大きく影響を与えるだろうし、少なくとも自分が死んだ時にはコミックスを棺桶に入れて欲しいと懇願するほどの壮大な感情を抱いてしまっている。どうしてくれんだよ………もうバナナフィッシュを知らなかった頃の自分に戻れねぇよ………アッシュ……(うわ言)
自分の中でもまだ整理できていない部分が多々あるものの、これから何年もかけてじっくりバナナフィッシュを自分の中に落とし込んでいけたらいいな、と思っている。これだけ感情を揺さぶられ、生涯かけて深入りしたい作品と出会えることは人生でも片手で数えるほどしかないと思う。個人的にはキノの旅や村田沙耶香の小説にハマった時と同じ感覚だ。
如何せんまだバナナフィッシュを知ってからそんなに日が経っていないので、ひとまず書きたいことだけ書いていこうと思う。
不朽の主人公 アッシュ・リンクス
バナナフィッシュを語る上で欠かせない存在は、もちろん主人公であるアッシュであろう。アニメでは私の推しである内田雄馬くんが声を担当している。はいそうです、正直ゆうまたそ目当てで軽率にアニメに手を出しました。底なし沼でしたけどね。
しかし私がアッシュ・リンクスという人物にこれほど惹かれたのは何よりも彼の人生に痛いほど共感したからだ。そして、彼の生き様に悲しくも憧れ、どうしようもないほどに彼が持つ魅力に強烈に惹かれ、焦がれている。
今ではもうアッシュ・リンクスという文字を見るだけで胸がざわつき、彼を想って泣きたくなるほどだ。我ながら重症だ。
彼は女性と見間違うほど美しい外見を持つがゆえに、幼少の頃から力のある男たちに性的に搾取されてきた。児童買春クラブを経営するゴルツィネに売られ、男たちの性のはけ口である”商品”として心身を切り売りさせられていたことももちろんそうだが、「街を歩いてただけでレイプされそうになったことが何度もある」という言葉からもありふれた日常の中でもアッシュは”そういう”目で見られていたのだろう。
それでも、アッシュは強い精神力で自身を蔑み搾取しようとしてくるやつらに屈することなく自我を保ち続け、結果的にゴルツィネに気に入られ、ブランカから生き延びるための教育を受け、誰も敵わないほどの実力と圧倒的なカリスマ性でニューヨークのストリートギャングたちをまとめるボスにまで上り詰めた。
そして、バナナフィッシュをめぐる陰謀に巻き込まれていく中で、見返りを求めず、深い愛情で傷ついたアッシュの心を癒す奥村英二と出会い、物語は加速していく。
BANANA FISHという作品はアッシュ・リンクスの人生そのものだと思っているし、アッシュ・リンクスの全てだと思っている。アッシュのために、英二もショーターも存在していたもの………でも光の庭(※原作19巻に収録されている番外編)の英二とシンを見るとしんどすぎて無理ですね………あと10年は引きずるわ………
生々しい女性蔑視とジェンダーギャップ
バナナフィッシュでは、各所に生々しい女性蔑視の表現が含まれている、と私は思う。
この方の記事を読んで、赤べこのように頷くことしかできなかった。まさに、アッシュを通して読者である私たちは女性蔑視はこんなにもおぞましいのだと痛感する。
アルテイシアさんのコラムが大好きでよく読んでいるのでこれはもう耳タコなのだが、我が国日本は男女格差を測るジェンダーギャップ指数が153ヵ国中121位である。
女性蔑視や根深いジェンダーギャップの溝は、フィクションでもなんでもなく現実に存在していることであり、実際に性被害はBANANA FISHが連載終了して四半世紀以上たった現在も変わらず数多く起きており、この問題は性差別や性被害にあった過去の有無に関係なく、誰もがおかしいと声をあげるべき問題である。
話をバナナフィッシュに戻すが、作中ではアッシュやジェシカがレイプされるがその痛みは本人以外にはなかなか伝わらないものだなと感じる。
そういう意味でも、ゲイクラブに潜入したマックスのセリフが印象的である。
女の気持ちがよぉくわかったよ…セックスの的になるってのはえれぇプレッシャーだな…
私はこのセリフがこの社会の男女の性差を表してるなといつも思うのだ。普段セックスの的にならない側が、その立場になった時にようやくその不平等さや本人がセクシャルを意識していない間にもセクシャルな目を向けられる不気味さに気づくのだ。
マックスは決して女性に対して蔑む態度をとるような人物ではない。むしろ、愛するジェシカがレイプされ、怒りに震えるほどだ。それでも、当事者になるまでそのおぞましさに気づけないのだ。私はマックスのような男性がこの世にはたくさんいると思っている。
この物語の中では、アッシュが誰よりも女性の立場を理解してくれている。たとえそれがアッシュが望んだ結果でなくとも。だからこそ、力でアッシュを屈服させようとするゴルツィネやフォックスに対してこれまで女性たちが声に出せなかった悲痛な叫びを代弁してくれているように感じる。
あんたは俺をただのセックスの道具としか思ってなかったんじゃなかったっけ?
”痛いか?小僧”
痛みすら感じないと思ってたのさ…!人間どころか生き物ですらない
せいぜい性器のしゃぶり方を覚えるのがやっとの脳みそしかない―と
その気になった時に精液を流しこむ便所と同じだ
お前たちはいつもそうだ…
力で人を踏みにじろうとする
逆らうのが気に食わないと言って支配しようとする…
私は幸運なことに、直接的な性被害を受けたことはない。それでも、外で男性がたくさんいるところに出くわすと本能的に怖いと感じるし、自分よりも体格がいい男性に詰め寄られるだけで気持ちが悪いと感じてしまう。
小中学生の頃からデブだブスだと外見でバカにされ、虐げられてきた苦い記憶は消えないし、今なお私が私の意思で自由に選択し世の中のマジョリティから外れることに何か言いたくてたまらない人からの心無い言葉に傷ついている。
この世界は、誰かが誰かを傷つけ、傷ついた人がまた新たな誰かを傷つけ、誰もが傷つきながら回っている。どんなに美人でも、どんなに優秀で聡明な人でも、メイクやファッション、趣味など特別なことではないことで簡単に外野から誹謗中傷を受け、簡単に自身の尊厳を傷つけられている。
そんな世界で傷つきながらも必死に生きる人たちに、アッシュの生き様は強く響くだろう。
以前、私はこんな記事を書いた。
一年前に書いたものだが、今読み返すと恥ずかしくなるほど無骨で、ただ自分が思っていることをそのまま書き殴ったような文章で校正したくなるレベルだが、当時の私が思っていたことは今も変わらず持っている。
いつからか、私は女性であるという理由で決めつけられること、偏見を持たれることに嫌悪感を抱くようになった。私は女性である前に一人の人間なのに、性別だけで選別され、他人が勝手に決めたものさしで評価されることに怒りを覚えた。女の子なんだから、というお決まりの文頭は聞き飽きたし、だから何?と思っていた。
だからこそ、アッシュが外見で判断され、謂れのない偏見と蔑視を向けられることに私もムカついたし、人を人と思わないやつらを葬りたくなった。
ただ、こういった思想は危険因子でもあって、私自身も男性を女性を蔑む存在だと決めつけ、偏見を押し付けてしまう危険性を伴う。また、そういう人たちのことを人として見られなくなるほど視野が狭くなってしまう可能性も含まれる。
私はどうあがいても生物学上女性であるし、今の私の性自認ではそれを変えたいほどの違和感はない。だからこれからも私は女性の立場で感じ、考えることしかできない。つまり、私とは異なる性、とりわけ男性がどのような立場にあるのか、自己の性欲や自己顕示欲、支配欲をどのように捉えどう向き合っているのか、想像することしかできない。もちろん、これらの欲は性別問わず人間誰にでもあるが、それを自分以外の立場や感覚で理解するということは非常に難しいものだと思う。
マックスがセックスの的―セクシャルの対象として的を向けられる当事者になって初めて女性の気持ちがわかったように、どんな人でも当事者にならなければわかりっこないのだ。それゆえに、どこまで自分は相手の立場に寄り添って考えられているか、常に自問し続ける姿勢が大切なのだ。私はこういう考え方をするようになってから気をつけているつもりだが、それでも自分本位になってしまうことがまだ多くある。
それでも、私は力や立場の弱い者を虐げ自己の欲を満たそうと他人の尊厳を傷つけるような人を軽蔑するし、絶対に許したくはない。そこにどんな理由があっても、裁判で同じことを言って通用するのか、と問いたくなる。
未だに私の中には嫌だったのに声をあげられず悔しかった思いが成仏できずにある。そういう気持ちは、時間をかけて向き合っていくしかないのだろう。
英二という存在
奥村英二、彼もまたバナナフィッシュ、いやアッシュを語る上で欠かせない人物だ。彼は運命的にアッシュと出会い、アッシュを押し流す運命に引き込まれるように彼の人生に深く関わっていくようになる。
英二は、強くならなければ生きてこられなかったアッシュが唯一気を許せるようになる相手であり、アッシュにとって自分の命よりも守りたかった存在である。アッシュは英二(の魂)と一緒の時だけは最も無防備で、優しく、ただの17や18の年相応な少年でいられた。リンクスの仲間たち、シンや月龍、ゴルツィネでさえも彼を神格化している中で、英二だけはアッシュをただの友人として接し、心を通わせた。ゆえに英二の前ではアッシュは一番人間らしくなるのだ。それが皮肉にも、アッシュにとって唯一の弱点になってしまうのだが。
アッシュに憧れる時、同時に私はアッシュに酷く嫉妬する。アッシュは、どんなに悲惨で死ぬことよりも地獄のような人生でも、英二というかけがえのない光と出会いこの上ない幸福を受け取ったのだから。
そういう観点でいうならば、私は月龍に最も共感し、あの世界で一番自分に近い存在だと感じる。月龍にも英二のような存在がいたら…と思うと胸が苦しくなる。
光の庭で、シンは英二のことを「他人のギリギリのSOSを敏感に感じ取る」と表現している。それは万人に対してではなく、限られた相手にしか発揮されないとしても、それでも英二がアッシュの心を救い、幸福に導いたことに変わりはない。
誰もが傷ついている世界で、誰もがアッシュにとっての英二のような存在を求めていると思う。自分にとって唯一の人に救ってもらいたくて、ありのままを受け止めてもらいたくて、もがいている。私もそのうちの一人だ。
もしかしたら私は死ぬまで英二のような存在とは出会えないのかもしれない。私はアッシュに感情移入しすぎてあまり英二に共感できていないのだが、英二はどうしてアッシュだったのだろう。英二にとっても唯一の人がアッシュだったわけだが、私にはまだわからない。これから先、自分自身が成長していくなかで、英二の気持ちがわかるようになるのだろうか。
そうなった時、私は本当の意味で誰かを救える存在になれるのだろうか。今はまだ英二がくれるような愛に飢えている私でも、互いに心を満たし、満たせる関係性を築くことができるのだろうか。それとも、これもやはり夢物語なのか。
まだまだバナナフィッシュは奥深い。だからこそ、長年愛される名作と呼ばれているのだろう。アニメも原作もどちらも素晴らしく、私の胸に深く刻まれた。
今の私の夢は、これはきっとバナナフィッシュにハマった人は全員そう思うのだろうが、ニューヨークに赴き、アッシュたちが生きた場所の聖地巡礼をすることだ。そのための渡米貯金も始めた。コロナが落ち着いて心置きなく旅行ができるようになったら、絶対にニューヨークに行きたい。
アッシュの魂を抱きながら、私はこれから生きていくことになるだろう。そして死ぬその瞬間まで、きっとアッシュの人生を想っていることだろう。もしかしたらそれだけでもう、私は十分幸福なのかもしれない。
原作ビジュアルのアッシュもたまらなく好きだけどアニメのアッシュも最高に好きだな~~~~~あぁ~~~~~~アッシュ~~~~~~~~~~泣
バナナフィッシュ全人類見て(オタクの常套句)
自己肯定感マイナス人間の修行
私は、自己肯定感/自尊感情(self-esteem)が低い人間である。
基本的には自分には価値がないと思っているし、成果をあげないと誰からも必要とされない人間だと思っている。自分自身に自信なんて1㎜もないし、コンプレックスまみれでもはやコンプレックスで武装してますみたいな落武者のような人間だと思う。
いつからこういう思考になったのかは覚えていないけれど、他人と比べて生きるようになった頃からの癖みたいなものだと思う。
私には母親がおらず、それだけでも自分は普通じゃないんだって思って育ってきたし、小学生~中学生の頃にいじめられた時は自分は人に嫌われる存在なんだって思ったし、大学中退をした時は多くの人が通れる道さえも通れない低レベルな人間なんだと思った。
この世界のあらゆるものが敵に見えたし、自分は自分、他人は他人、人と比べても良いことなんか一つもないって考えようとしても、ちょっとしたきっかけ一つで自分はダメな人間なんだなって思ってしまう。
こんな自分を克服したくて、自分に自信を持ちたくて、自粛期間中に筋トレを始めた。始めてから徐々に前向きになっていったけれど、身体は変わっても心まで変えるのには時間がかかるよう。ここ最近人から言われた言葉に揺さぶられて、強くなったと思った心が脆く崩れてしまった。もう私のライフはゼロよ~~~~……助けて亜貴ちゃん……
「こうしてほしい」は「こうできない君は無能だ」に聞こえるし、「期待してるね」は「期待通りにできなかったら無価値だ」に聞こえてしまう。どちらも、今の私のままではダメだと否定されている気がしてしまう。
おまけに人に頼れない、人に相談できない性分だからいつも自分で考えて自分なりに答えをだして生きてきているのに、何かあったらいつでも相談してねと言われるとモヤモヤする。簡単にできるならとっくにそうしている。したくなくてしてないんじゃない、できないからしてないのだ。
相談できない理由はいろいろあるけれど、私の場合相談したところで自分で変わらなきゃ意味がないと思っているからだし、何よりも相談してアドバイスをもらうとき今の自分を否定されたくないから。今の自分を作ってきた過去を否定されたくないから。
私はすごく弱虫だし臆病だし自分に自信がないから、否定されると途端に死にたくなる。だから自衛するし距離を取るし回避する。自分を守れるのは自分しかいないから。
とは言いつつ、だから自分は人間関係が下手くそで、そんな自分と周りの人に頼りながら上手く生きてる人とを比べて落ち込むんだなぁと思うと不毛だ。
人にはそれぞれペースがあって、それぞれに生き方、考え方があって、誰一人として同じ人生なんてないのに、どうして人は人と同じであることに意味を見出だしてしまうのだろう。
先日、ハ・ワンさんの「あやうく一生懸命生きるところだった」(原題:하마터면 열심히 살 뻔했다)というエッセイを読んだ。
この本の中で、著者のハ・ワンさんは競争社会のレースから外れ、仕事を辞めて自由気ままに生活をしながら感じたことを綴っている。
"努力は必ず報われるわけじゃない"
"ほかの選択肢はないという「執着」"
"「何もしない」とは究極の贅沢"
"ないならないなりに暮らせばいい"
"若い頃には戻れなくていい"
"何かを失うと、何かを得られる"
上記の目次の見出しだけ見てもあぁ~これ絶対好きだ、と確信して私はこの本を手にした。
中でも、「なんで結婚しないの?」という章についてはアルさんばりに膝パーカッションを打った。
「結婚しないのには自分なりの理由があるのだが、それをすべての人に説明し、許可を得ないとダメなのだろうか。」
もう~~~~~わかりみof the worldすぎて頷きすぎて首がもげそう。
私もいちいち聞かれる度に全員に説明するのは面倒なので、ここに今の気持ちを書き記して聞かれたらこのブログのURLを送ろうかと思う。
私が今結婚する気がない理由は、主に2つ。
①今の生活スタイルに満足しているから
②子どもを産むつもりがないから
①については、今の暮らしを無理して変えたいほどの不満はないし、慣れ親しんだ場所で慣れ親しんだ相手とほど良い距離感で暮らせているから。
その生活は25年かけてようやく今に落ち着いたものなのに、新たに誰かと別の生活をするというのはまたそのステップを踏まないといけないのでシンプルにめんどいなと思う。最短ルートで心地よい関係を築けるなら今頃コミュ障はとっくに改善しているはずだし、人間関係だって円滑に築けていたはずなのだ。
私は昔から一人で過ごすことに慣れていて(一人っ子という環境+生まれ持った性質のため)、自分の部屋で自分だけの時間を過ごすことに安心感を抱いている。それができなくなるようなら結婚はむしろストレスなのでは?と思う。
この考え方に理解がある人がどれだけいるかは知らないが、もし仮に私の考えが受け入れられて、お互い干渉もしないし四六時中一緒にはいたくないから部屋も役割も食事も別々にしようってなったとして、それもう結婚する意味ある?と思う。
そもそも、恋人や配偶者を作るメリットが私にはあまり無く、つらい時に支え合ったりお互いを思いあって癒されたりする関係を求めるなら友達やペットじゃダメなのだろうか?恋人である必要性、配偶者である必要性はどこにあるのだろうか。
私はなにも異性だけを性的対象にしているわけではない。というか性的対象って言い方があまり好きではない。好きな人は好き、そうじゃない人はそうじゃないというだけ。性別だけで好きな人を限定したくないと思っているし、好きだからといって性的欲求を抱くわけではない。
結婚にプラスのイメージを持っていないのは、昔から家族や親戚がみな夫婦仲がいまいちで父の兄弟はもれなく全員離婚していて、そんな環境で育ったことが起因していると思う。(私の両親の離婚については以前のブログに詳しく書いています。)所詮他人と他人、お互いに歩み寄れないならそりゃあ他人と一緒にいるなんて不可能では。
石橋を叩いて叩いてそれでもリスクがあるなら別の道を探しだすタイプの人間なので、ハイリスクハイリターンな人間関係は気苦労が多くて疲れそうだなと感じる。
②に関しては、子どもはめちゃくちゃ大好きだけど、プライベートで子育てに費やす時間と労力に魅力を感じない。
社会的にもまだまだ妊婦や子育て中の保護者に対する理解や思いやり、保障制度などが十分でないと感じるし、妊娠、出産、子育てで生じる肉体的負担、精神的負担、経済的負担は計り知れないし、それと子どもを産む選択肢を天秤にかければ子どもは望まないと思うのはそんなにおかしなことではないと思う。
確かに、親になって子育てをして初めてわかること、体感をもって理解できることはたくさんあると思う。それは唯一無二のものだろうし、生き物を股から産み落として、そこから育てて人格形成に影響を与えるなんてとてもじゃないが私にはできないと思うし、人を一から育てた経験値に私は一生敵わないと思う。
純粋に、荷が重すぎる。今はただ、自分の好きなように生きたい、自分で自分を一番に大切にしたい。ずっと自分のことが嫌いで、誰からも愛されないんだと思ってきた私だからこそこれからは自分を愛していきたいし、今はその修行中なのだ。
それから、我が子に私の責任を押し付けたくないという気持ちもある。自分の老後や死後に迷惑をかけたくないし、親は産む産まないを選択できるけれど、子どもは出生も親も選べない。
私は自分のしたいこと、自分の好きなことを最優先したいし、だけどそのせいで誰かの時間や誰かの思いを犠牲にはしたくない。私は私の責任において、私の人生を楽しむことを選びたい。
万が一子どもが欲しくなったら、私はきっと養子縁組を考えるのだろうなとぼんやり思っている。新しく生まれる命よりも、今生きている命を大切にしたいと思う。
女として生まれたなら子どもを産むべきだとかいう人には、じゃああなたが産んでください、妊娠してから子どもが成人するまでにかかる費用も全部自己負担で、何があっても自己責任で。ってかんじなのでフルシカトしますね。
両親に望まれず産まれてきた子どもがどんな気持ちで子ども時代を過ごすのかは私自身が身をもって痛感してきた。
頼むから、子どもを望まないなら低用量ピル&コンドームで避妊をしてくれ。IUD/IUS、子宮摘出、男性ならパイプカットをするという選択肢もある。調べれば、避妊する方法はすぐに見つかる。
そして子どもを望むなら、相応の覚悟をしてほしい。親の身勝手で不幸になる子どもをこれ以上増やしたくない。子どもは親の所有物ではないのだから。
なんて、偉そうに言ってるけれど、これはきっと私のコンプレックスなんだろうなと思う。自分の出生や育ってきた環境にコンプレックスを感じていて、だからそれに反抗して意地でも自分はそうなりたくないと思っているのだろう。
親や家族には感謝してるけれど、それは産んだことではなく育ててくれたことであって、そもそも17と22で妊娠してなんでおろさなかったのだろう?と思う。おかん(会ったことないけど)当時高校生でしょ?25年経ってもやっぱり理解できない選択だなと思うのだ。こんな私は無慈悲なのだろうか。
それで良いよって、そういう私だから好きだよって言ってくれるような優しい人はそうそう現れないので、自分で自分を肯定していくしかないんだろうなぁ。
子どもはどんな環境であっても、順応したり自力ないし周りの人の力で良い方向に進んだり、強く生きていくことはできると思う。現に私は25年も生きてこられた。
それでも、0スタートとマイナススタートでは、後者のほうが0地点に追い付くためにしなくてもいい努力や費やさなくてもいい時間が必要で、それは本来なら0からプラスに働いたかもしれない部分だ。だからこそ、大人が、親が、マイナスを無くしていったり減らしていったり埋めてあげたりしていく責任があると思っている。
苦労は糧になる?その糧って生きていくのになくてはならないもの?子どもにとっての最善の利益を考えるのが子どもを取り巻く社会の、大人の務めではないのだろうか。
できないことは約束しない。無責任なことはやらない。自分の心に誠実であること。私にとって重要なのは、ただそれだけなのだ。
負けるのが嫌だからジャンケンはしたくないと言っているのに、「勝つ喜びはいいぞ」とか「勝ったことがないなんて可哀想」とか、なんで勝つことこそが一番で、負けるリスクを背負ってまで勝つことを強要されなきゃいけないのだろう。
恋愛、結婚、出産は私にとってはジャンケンと一緒で賭けだと思う。自力ではどうにもならないことが多すぎる。ほぼ運ゲーだと思う。負けるくらいなら勝負をしないというのも一つの手だと思うのだ。
私は、勝ち続けることよりも好きなことして生きてる方が気が楽だし、それはそれで楽しいし満足してるんですけどね。
もちろん、ジャンケンしたい人はすればいいし、私がそこについてどうこう言うのは違うと思う。
他人がジャンケンするかしないかはその人の勝手だし、それで負けたからってそれはその人のジャンケンをすると決めた結果であり、受け止めるべきものだと思う。
株式投資の世界では勝つことよりも負けないことの方が重要視されているのに、なぜ人生は勝つことばかり主張されるのだろうか。勝たない選択肢だってあるのに。
はぁ、なんだかもう自分が何を言いたいのかわからなくなってきてしまった。結局私自身もこれからどんなふうに生きていきたいか、まだ明確な答えは出せていなくて、だけどこれだけは譲れないという信念だけは固くて、我ながら面倒くさい人間だなぁと思う。
これからもいろんなことで悩んで、何が最善なのかがわからなくなって頭を抱えることもあるだろう。それでも、私は考えて考えて考え続けて、こうしてその都度自分の気持ちを言葉にして表現して、"その時の最善"を尽くしていきたいと思うのだ。
人生25年目。私の自分のありのままを認めて自分を愛する修行はまだまだ先が長く遠い道のりである。
巣籠もり期間の所感
2020年4月7日、7都府県に緊急事態宣言が発令され、翌週13日から私が暮らす地域の小学校が休校となった。
私が勤める放課後児童クラブは、小学校の休校処置に準じて13日から休室となり、子どもたちは原則各家庭で過ごすことになった。
始めこそ週に1~2回ほど出勤し、事務作業や間に合わなかった新年度の準備などをしていたけれどシフトはほとんど休業に、4月下旬には微熱が出たことも重なってそこから長期間お休み状態になった。
現在は熱も落ち着き毎日リングフィットアドベンチャーで筋トレをしながらあつまれどうぶつの森で島の住民たちと楽しい日々を過ごしている。
楽しみにしていた春アニメが軒並み放送延期になりがっかりしたのも束の間、YouTubeでなかやまきんにくんの動画やサバンナの高橋しげおくんの動画を見たり、ずっとやりたかった乙女ゲーをようやくダウンロード購入して攻略を楽しんだり、唐突にあんスタのEdenというユニットにハマってアルバムを買って聴きまくったり、衝動的にそのEdenのメンバーが描きたくなって久しぶりにお絵描きをしたり………どんな状況でもオタクライフを満喫できる私は最強なのでは?と自画自賛レベル(?)
見てこれ……………曲とカメラワークとキャラクターたちのダンスや表情が最高だからみんな見て…………ユニットの3/4がCV推し声優なの私得すぎん…???内田雄馬?たぶん今いちばんってぐらい好きですね、花江夏樹?かれこれ3年近く追ってるくらい好きですね、逢坂良太?彼の声帯に弱すぎてどんな声色も性癖ですね……………諏訪部さんももちろん好きです()
この金髪の男、巴日和(通称おひいさん←しぬほどかわいい)はなんとユニット最年長でわがまま坊っちゃんのくせにアイドルとしての資質が高すぎてパフォーマンスに隙がない、やるときはやる自分の才能に自信と誇りを持っているあざといCV花江夏樹なんですよねさいっっっっこうでは…………………はぁ~~~~~~~~~大好物にも程がある
今回の自粛期間、私にとっては心と身体を回復させる巣籠もり期間になったなぁと感じた。
毎日無理して早起きしなくて良いし、好きな時に好きなことができて、時間を気にせず趣味の時間に没頭できて、健康を考えて生活を見直し食生活を変えたり体操やフィットネスを始めたり、ずっと愛犬のそばにいることで癒されて、もう一度見返したかった長編ドラマやアニメを一気見できたり、「時間があったらやりたい」と思っていたこともたくさんできて、毎日とってもハッピーだった。
だって、こんなに合法的に(?)仕事しないで遊んで過ごせる夏休みみたいな期間、人生においてそうそうないよ!?!?遊ぶっきゃねぇー!!!と心の中のガキんちょが暴走し、遊びまくってついにはあつ森のプレイ時間が300時間を越えた。
正直な話、3月に突然一日保育が始まり、私自身も気持ちがついていけないまま子どもたちと接する中で毎日消毒と感染症予防を徹底する仕事に追われ、まだ感染症のリスクを本当の意味で理解できていない子どもたちへ繰り返し繰り返し根気強く感染症予防について伝えていく日々が、とてもつらかった。子どもたちの不満が積もっていくのを肌で感じ、それでも抱き締めてあげることもできない。慣れない環境で慣れない仕事をしていくストレスやこのまま新年度を迎えてやっていけるのか?という不安を抱えながらも、子どもたちの前ではなんでもないフリをして笑顔でいるのがつらかった。
このまま休校が長引いて、延々と制限下での一日保育が続いて、経験したことのないストレスと不安を抱えたまま子どもたちと関わっていて、子どもたちとの時間まで嫌になってしまうのかと思うと、本当にしんどかった。大好きな仕事なのに、上手くいかなくて本当につらかった。今の仕事を辞めようか、とも考え始めていた。
だから本当のところは休室になって、仕事を辞めてしまう前に長期の休みがもらえて、心の底からほっとした。
そこからは堰を切ったように遊びたい欲、何にも縛られずに自分の好きなように過ごしたい欲があふれでてこの様である。遊びすぎてちょっと現実に戻るのがつらいです。ハタラキタクナイヨ………………
この期間に、いろんなことを感じて今後の生き方について改めて考えた人も少なくないと思う。私も例に漏れず思考をめぐらせていた。
働かなくても生きていけるのであれば、私はどうしたいのだろうか。好きなゲームと好きな趣味があれば、それだけで充実した人生を過ごせるのだろうか。私にとって、仕事をすることはお金を稼ぐこと以外に必要性はあるのだろうか。
働くこと、すなわち社会に貢献できているという感覚が人生において必要ならば、私はどんな仕事を、誰のために、どんなふうにしていきたいのだろうか。自分にとって何が一番心を満たせるのだろうか。
私はやっぱり子どもたちと遊びたいなと思った。ビジネスとして関わるというよりも、同じ空間で、一緒に遊んで、私の生活の中に子どもたちがいて、そして子どもたちの生活の中に私がいて、喜怒哀楽様々な気持ちを共感できたらいいなと思う。そのなかで、子どもたちが本当に困ったときに頼れる大人でありたいし、お互いの年齢は関係なく一緒に遊べる友達になりたいなと思うのだ。これから先どんな仕事を選んでも、根本にある子どもと遊んで最終的に私の働きを子どもの生活に還元していきたい志が果たせる仕事をしていきたいなと思ったりする。
仕事柄、どうしても好き勝手遊ぶだけというのは難しいけれど、発達や子ども同士の人間関係に配慮しつつも楽しい時間を一緒に過ごしたいなと思うのだ。そうやって好きなことをして楽しく過ごして、死ぬときにあぁ楽しかったなぁ満足!と思って死にたい。
そう考えると、やっぱり私はいつまでも子どもなんだなと思う。でも、それが私だなとも思う。子どもたちとアニメやゲームの話で盛り上がったり、ポケモンしりとりやったり、ボードゲームで対戦したり、そういう時間が一番好きだなって改めて思うのだ。そういう子どもたちと過ごす楽しい空間や時間を守るためにも、児童や保育に関する適切な知識と豊富な経験は必要なのだろう。はぁ~勉強しなきゃな~
占星術の観点からみると、今年は大きな時代の切り替わりポイントかなと思う。12月にグレートコンジャンクション(しかもミューテーション)がくるのでかなり世の中の色が今年までと来年以降で変わると読んでいる。
これまでは地の時代、成果や実績、長年積み重ねてきたものや目に見える所有が多いほど価値がある時代だった。
しかしその価値は徐々に廃れ、これからは風の時代。コミュニケーション能力や人脈、縦社会ではなく横の繋がりが重要視されるようになる。また、集団よりも個人が尊重されるようになり、自分自身についてよく考え、自分は何が好きでどう生きたいかを考えられる人がイキイキする時代になると、私の希望的観測では読んでいる。
自分自身を尊重し、そして相手自身も尊重し、競うのではなく協力し合う、お互いの得意分野で補い合う、そんな世の中になっていってほしいし、性別や年齢による偏見がなくなりパワーバランスも均衡に保たれるといいなぁと期待ばかりが膨らむ私である。
まぁ日本は占星術のホロスコープを当てはめると不動宮になるらしいので変わるとしてもおっっっそいんですけどね。いつも世界の動きより後手後手なのはこのため。その分、変われば長く続くはずなので頼むよ水瓶座~~~!!!
最後に、今世間は打倒ウイルス!とやたら消毒!除菌!危険なものは排除する!と戦っているけれど、私はそうじゃないよなと感じている。
どんなウイルスであれ、微生物、植物、野生動物、この地球に人類と暮らすものの一部だと思うのだ。だからこそ、共存の考え方。人間様が一番偉いなんていう考え方は地の時代に置いていってしまいたい。
人間の都合で生態系を破壊すること、自然を省みず環境汚染をすること、本来あるべき姿を身勝手にねじ曲げてしまうこと。そういうことに、まず疑問を持つところから始めてみてほしい。
風は、場所や人種を選ばない。だからこそ、共存していくものが生き残る。これからの風の時代は、そうなっていくと私は感じる。
生命は、生まれたなら必ず死ぬもの。人の一生なんて惑星の時間からしたらほんの一瞬だ。その中で何を大切にしていきたいか、どんな一生の終わりを迎えたいのか、考え続けられる人がこれからの時代を作っていくのだろう。
今日は双子座新月。占星術が流行って、情報のひとつとしていろんな人と占星術の話ができたら楽しいのになぁと思う今日この頃である。
年を取るということ
静岡に行ってきた。
本来ならば、そこで行われるはずだった高橋優ライブに参戦するためにバスとホテルを予約していた。
静岡といえば、山下大輝くんの出身地で、彼がハンバーグの話をするたびに一度は行ってみたいなぁと思っていたし、浜松餃子もいつか食べてみたいなぁと思っていたので、初めて静岡に遠征できるのが本当に楽しみだった。ライブ中止が発表されるまでは。
新型コロナウイルスが~と世間は毎日騒いでいる。混乱が続くなか、私の職場も突然小学校が休校になり慌ただしく対応に追われている。
シフトも元々予定していた時間数から大幅に増加、混乱している子どもたちのメンタルケアも含めてシンプルに仕事量がどっと増えた。
ただでさえ2月はメンブレで優さんのライブを糧に頑張ってきたのにそれが無くなった。愛犬が入院&手術をしていて心の支えもいない。追い討ちをかけるように仕事面の負担が大きくなって控えめにいっても私が何かしたのか!?と爆発したくなった。
なぁ……………今回の優さんライブ、セトリのネタバレをみたのだけれど、正直ここ5年で一番私好みのセトリで、さすが10年目!と思わせるような初期のマイナー曲まで入っていて古参ファン大喜びの内容だったわけ。
だから本当に本当にライブで聴けるのが楽しみだったし、5年間ライブだけは毎年行ってきて良かった…!と思っていた矢先のハプニング。チケットはこの静岡公演しか取れていない。すなわち私はあの神セトリ公演を見られない…???????私………この5年ずっとこういうセトリを望んできたのに………なんで……………ツアーは12月からスタートしていてもうそのライブを体感している人がいる、興奮と感動が冷めやらぬ感想も目にしてきた、なのになぜ、私は。
ライブに行けた人と行けなかった人。チケットはある。それなのにこの差はいったいなんなのか。考えてもライブ中止の現実は変わらない。私は、ライブに行けなかった。
悔しくて悔しくて本当に無理で、どうしたってなんで私が!?という思考になってしまうし気が狂いそうだった。
正直、気持ちの切り替えはできなかったけれど遠征費は入金済みで、キャンセル料ももったいないので静岡に行くだけ行くことにした。
とはいえ目的はライブ以外そんなにないので、さわやかのハンバーグと浜松餃子を食べたところですることがなくなった。要するに、めちゃくちゃ暇だった。
しかしそこは腐ってもオタク。静岡駅付近の大型商業ビルに入ってた書店に入り浸り、買いたいだけ買った。ほくほくした気持ちでホテルに持ち込み、読み耽った。
本当は駿河湾に行ったり富士山を近くで見たり、少し観光を楽しもうと思っていたけれど、なにせ気分が乗らず、天気もぐずぐずだったのでめんどくさくなってやめた。ひたすらマンガとエッセイを読むだけの旅だった。
突然だがここで俺の買った本と読んだ本を紹介するぜぇ~~~?(cvスギちゃん)
まずは自宅から持参し、今回の旅の中で読了したこの2冊!
40歳を過ぎたら生きるのがラクになった―アルテイシアの熟女入門― / アルテイシア
自尊心削られながら個性出せって、どんな罰ゲームだよ? / Vanessa
前回のブログでも登場したアルテイシアさんの本~!!!アルテイシアさんの書かれる文章から伝わる断固男尊女卑!駆逐してやる…!というパッションと滲み出るオタク感が好きすぎて(特に金カムネタが大好き)アルテイシアさんの本を読むのはこれで3冊目になる。
アルテイシアさんの本では、JJ(熟女)になるとどんな感覚になるのかどんな生活に落ち着くのか、メリットとデメリットが丁寧に、かつ面白く描かれており、あぁこんな未来なら楽しみだなぁと思わせてくれる。
友人は20代が一番華があってなんでもできる、と言うけれど、私はそうは思えない。下からはいい大人だと思われて上からは若者扱いされる。なかなか一人前だと認められにくいし、どんなに頑張っても上には上がいると痛感しやすい。自己肯定感も持ちにくいし、感覚的にハラスメントにあいやすいのもこの時期な気がする。各方面で恋愛は?結婚は?と騒がれるのもうんざりする。
私は早いとここんな時期を抜け出したいと常々思っている。華なんか求めてないしとにかく他人に干渉されたくない。そもそもそこまで他人に興味がないし、正直どうでもいい。どうも~!筋金入りのコミュ障の私が通りますよ~!私が興味を持てるのは私が好きになる人だけだし、私が好きなもの、私が好きなことだけ!はい!以上!
話は戻るが、ヴァネさんは2年ほど前からTwitterでフォローしている大好きな方で、考え方だったり生き方だったりが好きで、なによりその語彙力がたまらなく好きで。本を出されると知ったときリアルに叫んだ。発売されてすぐ買った。読んだ。語彙力おばけ…………すごい……………ってなった。文章だけになると普段の動画と比べるとインパクトはそこまでないけれど、書きたいことを書きたいように書いてるんだなぁっていうのが伝わって、さらに憧れた。
エッセイは私が私ひとりの人生を生きているだけでは体験し得ない出来事だったり考え方だったり感じたことを本を通して疑似体験させてもらえるので好きだ。
私が好きになった人全員にもれなくエッセイまたは自叙伝を書いてほしい。今のあなたを形成したバックグラウンドを!覗かせてほしい!読ませてほしい!あなたの人となりを知りたい!
ヴァネさんしかり、優さんしかり、斉藤壮馬しかり…………好きな人がどんどん本を出してくれて本オタクは歓喜だよ…………もっと本出して……………
次に静岡で購入した本はこちら!
ジェンダーレス男子に愛されてます。 / ためこう
わたしの幸せな結婚 / 原作:顎木あくみ 漫画:高坂りと
初めまして瀬尾まいこさん!!!昨年、「そして、バトンは渡された」で本屋大賞を受賞されてからずっと気になっていた作家さん。本屋さんをぶらぶら見ていたところで見つけたこの本に妙に惹かれて衝動買い。まだ20ページほどしか読んでいないけれど、これから読み進めるのが楽しみである。
そしてジェンダーレス男子に愛されてます。通称ジェン愛!ほぼ表紙で衝動買いした。ためこうさんといえばBL作品が有名だが、これは!!!めずらしくNLで!!!かわいい年下男子とかわいいお姉さんのラブラブいちゃいちゃほのぼのハッピーラブコメでまぁ~~~~~~~~終始かわいさがカンストしていてニマニマがとまらねぇ~~~の!!!トキメキがとまらねぇよ…………あ?心臓いくつあっても足りねぇな……ジェンダーレス男子めぐるくんがあまりにも性癖にぶっ刺さりすぎてしんどい。好き。勝手にスタマイひかるくんから連想してめぐるくんを脳内でCV下野紘に設定してしまったからもうダメです(白旗)かわいいは正義。カプ名、めぐわこ?この二人がとんでもなくかわいすぎてご祝儀渡したい。あと年下攻めはま~じで最高。めっちゃかわいい子が攻めなのがド!ストライクぅ~………………
最後に前から気になってたラノベのコミカライズ。和風ファンタジーで大正ロマン溢れるこちらも私の性癖ドドドストライクな作品。
こちとら上田倫子とはいからさんとめいこいが好きなオタクだぜ?わかるな?時代もののラブロマンスだ。大正ロマンは良き………………軍服とか許嫁とか最高に性癖だぜ………………
何の話だいったい。性癖トークなんて普段友人にも(他人の性癖なんて興味ないだろうし、私のことを話す時間が相手にとって無駄でしかないから申し訳なくて)話さないからTwitterやブログでしか吐き出せないのだ。でも好きなものを好きだと叫びたいオタクの性。叫ばせてくれよ………俺の中で滾る熱情を……………
今回の旅行で強く感じたのが、年を取っても変わらない部分と、年を取ると変わる部分が、25歳になってだんだんはっきりと分かれてきたことだ。
前者は、大方自分の性癖とオタクイズム。後者は体力と執着心だ。
昔は旅行で知らない場所に来たなら、ご当地のグルメを求めたし観光地もせっかくなら回りたい!とアクティブに動いていたと思う。
でも今回、2年ぶりに遠征したら3時間半の高速バスだけで疲労がきつく、観光する体力がそもそも残っていなかった。
グルメも、別に食べても食べなくてもどっちでもいいという感覚になり、お店が遠かったり食べるまでに負担があると結局めんどくさくなって近くの松屋に入っていつものメニューを頼んでしまう(松屋は食券なので楽なのだ)。
もし今30代、40代だったら、何も気にせずそのへんの居酒屋に一人でふらっと入っておでんとか食べれるのになぁ~~とか思っても、さすがに知らない街で20代の女が一人で…となるとなかなかハードルが高いし、変なことに巻き込まれそうで怖くて結局松屋を選んでしまうのだ。そういう意味でも20代は不便だ。
そういう壁がなくなるくらい、年齢や性別によって望む選択肢が限られる世の中じゃなく、誰も傷つくことなく皆が選びたいものを好きに選べる優しい世の中になってほしいと私はずっと祈っている。
私の中身は16歳と40歳を行き来しながらも、端からみれば25歳の若くもなくかといって成熟もしていない中途半端な存在だ。
常に理想の自分とはかけ離れている現状に辟易するし、理想が叶う確率が低いことくらいさすがに学習した。
夢見ることさえ疲れてしまうお年頃になった私だが、 自己肯定感と自信を持った明るくて優しいユーモアなJJ目指してまだもう少しこの世界で頑張ってみることにする。
とりあえず約ネバ完結とアイナナ最終章は絶対に見届けなければならないし、神楽亜貴本編はもちろん、大谷羽鳥本編も見届けたい…………羽鳥の『本気の恋愛』とか考えるだけで心臓痛い…………最推し×CV内田雄馬は沼すぎる……はっ…ヒロアカも終わってないし斉藤壮馬の新曲もあるじゃん……
オタクはまだ簡単には死ねなさそうだ。
年を取ると、まず無理をしようとしなくなるし、越えられない壁ははじめから避けるようになる。夢や希望は徐々に無くなるけれど、そこに縛られて疲弊するよりはよっぽど楽だ。
諦めが簡単につく、というより執着心が無くなることは、心を穏やかに保つうえで欠かせないことなんじゃないだろうか。執着心は、本当に自分が好きなところにだけ、集中的にあればそれで十分な気がする。
ところで約ネバ18巻のフルスコア組があまりにも尊すぎてしんどい……7月からアニメ1期再放送、10月からアニメ2期スタートなんですけど本当………もう…………あぁぁぁぁぁあ動くレイエマぁぁぁぁあああああああ!!!!!!!!
ちなみに実写版、ママ役が北川景子、シスタークローネ役が渡辺直美だそうですね…………ナオミワタナベの本気の「見ぃつけた♡」あるのかな……やっぱりそこはすごい気になる。約束のネバーランドはいいぞ……原作もアニメもよろしくね……
将来めちゃくちゃ合コンに行ってそうと言われた私がオタクを続けている理由
アルテイシアさんの「離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由」を読んだ。
大好きなYouTuber、助産師のシオリーヌ(大貫詩織)さんが動画でこの本を薦めていたのを見てすぐに衝動買いした。このとおり、影響を受けやすい質なのだ。
300ページ以上あるのにすいすい読めて、仕事の合間を縫って2日で読了してしまった。めちゃくちゃ面白かったし、こんなに読みながら爆笑した本と出会ったのは初めてだった。
私の人生の中で節目になるような、生涯大切にしたいバイブル本ベスト5に入る気がする。
ちなみに既に殿堂入りしてるのが
漁港の肉子ちゃん / 西加奈子
i / 西加奈子
嫌われる勇気 / 岸見一郎
消滅世界 / 村田沙耶香
えっもう枠ないじゃん()
https://viewer-trial.bookwalker.jp/03/8/viewer.html?cid=f259835e-a6d0-4a3d-b404-2b0eeb3604c5&cty=0&adpcnt=7qM_t
↑こちらから30ページまで試し読みができるので、「はじめに」だけでも是非読んでみてほしい。一行目からアルテイシアさん節が効いているので。
何度も言っているけれど私は村田沙耶香さんの小説がめっっっっっちゃくちゃ好きで、私の価値観の根底に村田作品の影響が強く根付いているので、恋愛と結婚と生殖は全く別物だと思っている。
アルテイシアさんも同じようなことをこのエッセイの中で語っていて、共感のあまり心の中で強く握手した。
この本の中で私が特に感銘を受けたのが、子宮全摘シリーズだ。これはもう子宮を持つ全ての人に一度は読んでもらいたいぐらい素晴らしい体験記である。
私も毎月くる月経が本当に苦痛で、30歳までにこの人となら一緒に子育てしたいと思えるような精子の持ち主と出会えなかったら子宮は全摘しようかなと思った。すーぐ影響を受ける。
アルテイシアさん夫婦は選択的子ナシという家族のあり方を選んだ。それが本当に素敵で、お互いがきちんと自分の気持ちを伝えたうえで合意して円満に生活しているお二方が本当にほほえましく、理想だなぁ~と思った。
「結婚は単なる箱で、中身は50年の共同生活」というアルテイシアさんの言葉に本当それな!!!と首がもげるほど頷いた。
子育てとはつらいものだ、という先入観がどこかで拭いきれないのは夫と息子たちに苦労してきた祖母の姿をずっと見てきたからだろう。
旦那(私の祖父)は子育てに非協力的だったと聞くし、その割には口だけは出してきては気に入らないとキレ散らかして息子たちに嫌われていた。晩年には家にお金を入れずスナック通い、あげくの果てに借金を抱えたまま認知症になって呆気なく死亡。祖父の借金の尻拭いも認知症になってからの介護も死亡後のもろもろの手続きもすべて祖母がやっていた。祖母もアルテイシアさんばりに波乱万丈な人生だったんだろうなぁ……と思う。
息子(私の父)が22の時に孫が産まれ、その母親は育児放棄(当時17歳だったから仕方ないとは思う)、私の両親は生後まもなく離婚した。
22の息子には任せられないと思ったのか、孫の養育は当時50代だった祖母中心だった。息子三人を育て上げ、子育てから解放されたと思ったらすぐに私が産まれて祖母にとっては4人目の子育てと言っても過言ではなかった。(実際、祖母は保育園くらいまで私に父のことはお兄ちゃんと呼ばせていたらしい。)
昔から、『保護者』と聞いて真っ先に思い浮かぶのは祖母だった。
比較的一般的ではない出生の私だが、父に対しては、いやあんた17の子に手を出したんか!?貞操観念どうなってるん!?と内心思うし、まぁ17歳と22歳で子ども産んでまともに子育てできるほうがレアケースやろな…とこの歳になったからわかる。
17歳の時の私なんて韓流アイドルに夢中で大好きなアイドルの名前を借りた夢小説や小説サイトの恋愛小説を読み漁っていたし、22歳の時の私は忍たまにドはまりしてアニメ・声優沼に片足突っ込んでいたし(そして沼にズブズブになった今に至る)、母も父も若かったんだなと今なら思える。
まぁ無責任にセックスしたのは自分たちなんだしそこは自己責任だろうがな!!!日本では性的同意年齢は13歳からと定められているし性教育がザルとはいえ、最低限避妊したんか?ワレとは思う。
そんな両親の下に産まれたワイ氏25歳独身パートナーなし歴25年は、今でも暇さえあれば推しカプの小説を読み漁っているのでやってることは高校生の頃と大して変わっていない。根っからのオタクなもんで。
余裕のない攻めと精神的に攻めより強い受けがとても好き…あと年下攻めはやっぱり王道ですね大好き…受けに救われた陰の攻めと無自覚で他者を救う陽の受けというカプも大好物ですね最高。
こんな性癖だし趣味も幅広いし私のことを人に理解してもらおうなんて考えは毛頭ない。しかも厄介なことに、私の解釈は常に変化し続けているので下手に他者と関わって解釈の齟齬がおきたら生理的に受け付けない。結局一人脳内でキャッキャウフフしてるぐらいがちょうどいいのだ。いつどんなときでも私の解釈の一番の理解者は私自身だからね!!!真理。
この件に関してパートナーに望むのは不用意にこちらの領域に踏み込んでくるな、ということだ。推しは神聖なので。
話が脱線したがこんな私でもオタク趣味以外は割りと真面目なほうだと思う。真面目すぎて譲れないことも多いと感じる。
自分の出生の罪悪感からか未だにできちゃった婚には眉間にしわが寄るし、無責任にセックスする人とは相容れないと思っている。浮気、不倫は絶対許せないし、理性的でない人は好きになれない。自分と相手の身体と心を思いやれない人とはパートナーになれないと思っている。あとやっぱり知的な人が好き(強欲)
家族って、生活を共にする人じゃないですか。取り繕っていたら何十年も一緒に暮らせないと思うんです。日常生活にセックスが必要な人とそうでない人がいるわけだが、私はどちらかというと後者だ。
だけど一人で暮らすとなるときっと寂しく感じる気がするので、父が亡くなった後は信頼できて私の在り方を否定しない友人かパートナーや愛するペットと一緒に暮らしたいと今は思っている。
ここまで読んだらもうわかったかと思うけれど、どうしようもないのだ、これが私だから。私を変えられるのは私しかいないし、私の人生の責任者は私以外いない。私が良いと思う生き方をこれからも選んでいく。
お母さん、あなたの娘は今日も元気にオタクやってますよ。
生きていくなかで、波乱万丈だろうがそうでなかろうが、結果的に「いろいろあったけど、私は元気です。cvキキ」な日々を更新していければそれが一番なんじゃないか、と思ってきた。調べたら魔女宅のキャッチコピーは「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです」だった。ちょっと違ったけどまぁいっか。
オタクライフを満喫するもよし、気の許せる友人と遊んでエンジョイするもよし、大切なパートナーと一緒に歩むもよし、やりがいのある仕事に打ち込むもよし。どんな生き方もその人がその人らしく楽しく生きていければいいんじゃないだろうか。人生には、自己満が必要だ。
アルテイシアさんのエッセイを読んで、死ぬためにパートナーは必ずしも必要ではないけれど、生きていくにはつらい時に支えになってくれる存在と誰も傷つけないお笑いが必要なのかもしれないと思った。
それは家族かもしれないし、友人かもしれないし、パートナーかもしれないし、推しかもしれないし、ペットかもしれない。それはなんだっていいし、自分で決めて良いし、自分にとって居心地が良い間柄を見つけられたら万々歳だなって思った。
友人曰く、私は自己肯定感が0どころかマイナスな人間だそうだ。私もそう思う。気を抜くとすぐ「私はなんてダメダメで最低な人間なんだろう…こんな生きてるだけで迷惑なやつは死んだほうがいい…」と思ってしまう。
だけど唯一、本を読んでいる時の自分は好きだと思える。読書は私にとって救いなのだ。
これからも好きなように好きな本を読みながら、好きなようにいろんなジャンルにハマって、楽しくオタクライフを満喫していきたいな~と決心した。
そしてやっぱり、私は肉子ちゃんやアルテイシアさんみたいな明るくユーモアな大人になりたいなと改めて思ったのだった。
最近、歌い手のまふまふさんにハマりつつあるので本当にジャンルを問わねぇな私は…と思っている。
どんなジャンルでも、私が好きになるきっかけ一つあればハマれるのは天性の才能な気がする。
まふまふさんはかわいいぞ!!!おすすめである!!!
射手座木星期を振り返る
昨年の11月頭から続いた射手座木星期もいよいよ転換期を迎える。
紆余曲折あったこの射手座木星期の振り返りを、少し早いが2019年の総括も兼ねて書き綴りたい。
1年前の蠍座木星期の振り返りはこちら。
yona1242.hatenablog.com
哲学と読書、趣味の増幅、役割の拡大、ストレス太り
私のこの1年を射手座の象意を加味しながら表現するなら、こんなかんじだろうか。
ちなみに射手座のイメージは、「より高みへ」「精神性の向上」「未知への挑戦」「内から外へ飛び出す」。木星は「拡大」「発展」よくも悪くも広がるイメージ。
木星は射手座に、土星は山羊座に、海王星は魚座にいてそれぞれがホームグラウンドでパワフルに影響を与えていることもあり、羽ばたきと試練と精神世界が正面衝突していたような気がする。
まずは哲学。ここはもろに射手座っぽさが出たと思う。めちゃめちゃ哲学に触れていたし、推し哲学者(?)も出来た。(→推しはキルケゴールです)
哲学を通して人間、世界、人生について深く考え続けた1年だったと思う。
本もたくさん読んだし、読書メーターに記録しているだけでも30冊近くは読んでいた。これまでの読書ペースと比べると、かなり読んだ方だと感じる。 自己啓発本から小説、児童書、ビジネス書、絵本、なんでも気になるものはチェックして読んでいた。
哲学、高尚な学び、広い世界への知識欲。このあたりは射手座木星の影響を強く受けていたように思う。
そして趣味の増幅。気になるものにいろいろ手を出しまくった。結果、収拾がつかねぇ。
11月~ ダイヤのA(春市くん!春市くん!)
12月~ YouTube(今も暇さえあれば見てる) サンムーン(アシレーヌ様)
1月~ グッドワイフ(小泉孝太郎しんどい) 約ネバ(フルスコア組尊い) Perfume(日本を代表する国宝 女神)
2月~ 村田沙耶香(察してくれ) タロット(美しいカードの絵柄に魅了)
3月~ めいこい(菱田春草とかいう男…) あつの裏(めちゃくちゃ理想の夫婦 癒される)
4月~ 鬼滅の刃(我!妻!善!逸!)
5月~ モアナ(曲が良すぎる)
7月~ 手帳(文具熱も上がった) 凪のお暇(慎二~幸せになれ) 荒ぶる季節の乙女どもよ。(青春が眩しい)
8月~ QuizKnock(推しは山本くん)
10月~ スタマイ(勘弁してくれ大谷羽鳥)
11月~ ルービックキューブ(6面2分でいけるようになった)
好きな声優さんも、引き続き斉藤壮馬、梶裕貴、花江夏樹、村瀬歩に加え、内田雄馬、逢坂良太、堀江瞬、西山宏太朗と追う推し声優を増やし…今は山下大輝くんも気になるところ…(節操なし)
アイナナや高橋優といった長く好きな存在も引き続き好きで……アニメ、声優さんも数年前にハマってからの延長線上でどんどん好きなものを見つけてはハマっていた。あと今年はよくamazarashiを聴いていた。
また、職業柄子どもとやる卓球やオセロ、マンカラにもハマっていたし、最終的にルービックキューブにもハマって今や父親にドン引きされるスピードでできるように。キューブは子どもに教えると結構喜ばれるのでこちらも嬉しくなる。
QuizKnockをきっかけにクイズにもハマってQさまと東大王は毎週録画して見るようになったし、YouTubeの動画もかなり見てる。山本くんに憧れて漢検準1級取りたいなぁなんて思ったりしたけど別に行動はしていない。山本くん、かわいい・背が低い・頭が良いの三拍子揃ってて私が好きにならないわけはなかった…SUKI
オススメの動画はこちら。山本くん天使かな……
あと今はポケモンの新作(剣盾)がやりたすぎてやりたすぎて……年末の仕事頑張ったらご褒美に買うと決めていて、その時はヒバニーを相棒にすると決めている。はぁ~ポケモンと旅に出たい………
こうやってみると本当に趣味を楽しんでいたなぁ~!!!と実感する。趣味(=没頭できる何か)がないとたぶん私は生きていられないのではないだろうか。没頭してる間はネガティブな思考をストップできるので救いだった。
手帳も文具もハマっていろいろ手を出していた。ほぼ日、フランクリン、CITTA、週末野心…手帳を同時に複数冊を使うようになったのも今年から。
役割の拡大というのは、主に家事と仕事の負担だ。
いろいろあってこれまで以上に家での役割が増えたし、転職したことでこれまでとは異なる役割を担うようになって慣れないなかどんどん仕事量が増えていった。
学生としても、スクーリングにたくさん通うことになったし、課題もどんどん山積みに。しんどい。逃げたい。そうやって趣味の世界へ逃げ込んでも山羊座や土星先生がこちらを睨みつけている。恐ろしい。助けてくれ。
極め付きはストレス太り。うん。食欲がね、どんどん拡大してね、うん。うん………ストレス半端なくて……うん……食べても食べても満たされないやつ……
去年、木星が蠍座から射手座に移る頃に想像していた1年は、ジュピターリターンだし、射手座だし、ワクワクドキドキ!楽しい冒険の旅が始まるぞ!ってイメージだったのに蓋をあけてみたら試練×実力不足×多忙のフルコンボ。
この1年間のポジティブとネガティブの比率は2:8くらいの割合。迫りくる怒濤のしんどさってかんじ。SHINDOI
役割の拡大というのは私だけじゃなく、多くの人が体感しているのではないだろうか。
自身の幅(人によっては仕事だったり役割だったり人間関係だったり)を広げてみたは良いけれど、収拾がつかなかったり、結果がついてこなくて焦燥感。
真面目な人ほど悩んで、自分の力不足に苦しんだり落ち込んだりしたと思う。
今これを読んで心当たりのあるあなたへ。
あまり力になれなくて申し訳なかったです。私もいっぱいいっぱいだったのです。だけど、私もあなたも本当によく頑張ったと思います。1年間等身大でぶつかってきたと思います。新たな地へ移り、土を耕し種を植えて、花開くのを想像して、これからです。芽が出るのは、これからだと思います。土星先生は、芽の出ないことをわざわざさせないと思います。無駄が嫌いなので。大丈夫です。
波乱だった射手座木星期も終わりが近づいてきていて、次は合理的で結果主義の山羊座へ。今までなぁなぁになっていた部分もピシッと引き締められたり、ごちゃごちゃしていたことが順に片付き始める予感。
山羊座~~~待ってたよ……厳しいけど私のホーム………結果を出せるといいな………現実……見なきゃ…………
この射手座木星期の間に広げた知識や経験を、これからの山羊座木星期で何かしらの形にできたらいいなと思う。
でもその前に、11/27は射手座新月ですね。旅行の計画でも立ててみようかな。
今月はゆうまたそ、来月はそま氏の新譜が発売されるので楽しみだ~~~!はぁ~~~声帯がヒーリングミュージック(?)
斉藤壮馬です!ついに!EP『my blue vacation』の詳細が発表されました!どれも思い入れのある曲ばかり!今回もアートワークなど、細かいところまでこだわっております!何卒よろしくお願いいたします〜!S#斉藤壮馬 #SS1stEP #1218発売 pic.twitter.com/8fI8UVkVye
— 斉藤壮馬:[Official] (@SomaStaff) November 23, 2019