i
私は時々私を見失う。
自分の夢も、自分のアイデンティティも、自分の存在意義も。
西加奈子さんの「i」を読んだ。
発売した頃からずっとこの小説の存在は知っていたし、書店でもそれをよく見かけていた。けれど実際に手に取ることはほとんど無かったと思う。
なのに、その日に限っては、フラッと出掛けた先で惹かれるように手が伸び、これを読むべきだとふいになぜかそんな直感がして、気づけばレジでバーコードを通していた。
そしてその夜、一晩で私はこの物語を全て体感したのだ。
涙が止まらなかった。赤子のように泣きじゃくった。今の私に、この物語は絶対に必要だった。そうとしか思えないほど、私の心の奥底まで西さんの優しさがじんわり沁みたのだ。抱きしめてもらいたくてたまらなかったのは、私のほうだった。
主人公のアイは、アメリカ人の父と日本人の母に育てられたシリア人の養子だ。アイにとってそのアイデンティティは幼少の頃からコンプレックスだった。
そんなアイが、ニューヨークと東京で暮らす中で様々な葛藤をしながら成長していく過程がとてもリアルだった。読みながら、私はアイと一体化したような感覚に陥っていた。アイと共に苦しかったし、もがいていたし、心の叫びを叫んでいた。私はアイだったし、アイは私だった。違うのだけれど、違わないのだ。
今私がこうして生きて、それとなく生活できているのは、これまでのたくさんの奇跡の上に立っているからだ。
数えきれないほどの先祖たちが出会って、命を繋いで、私が誕生して、この家で、この家族と暮らしながら、あの保育園、あの小学校、あの学童、あの中学校、あの高校、あの大学、あのバイト先、今の職場、そして今の短大とたくさんの道の選択肢からひとつひとつが繋がって今に至っている。
数えきれないほどの人たちと関わり、影響し合いながら、今ここにいる「私」は出来上がってきたのだと思う。
膨大な選択肢を考えれば尚更、これまでに死んでしまってもおかしくない節目はたくさんあったはずだ。
生後まもなく横隔膜ヘルニアで手術したとき
喘息の発作で救急車で運ばれたとき
いじめが原因で不登校になったとき
大学受験に失敗したとき
大学を中退して将来に絶望したとき
大好きなおばあちゃんが亡くなったとき
これ以外にも、数えきれないほどあるだろう。飛行機に乗るたびに墜落死する可能性だってあったはずだし、車を運転するたびに事故死する可能性だってあったはずだ。言い出したら本当にきりがないほど、死は身近だ。
最後の節目については、今もその渦中にいるのかもしれない。あの日からずっと私は生と死について考えているし、私が生きる意味がわからなくて毎日考えれば考えるほど疲れてしまって、もう生きるのをおしまいにしたいと感じていた。
どうして私は生きているのだろう。どうしておばあちゃんは死んでしまったのだろう。どうして3歳の女の子が不慮の事故で死んでしまったのだろう。どうして私よりも輝かしい未来が待っているはずの人が容易く死んでいっているのだろう。
私にできることがあるなら、それをするのが生きる理由になるのだろうが、それが何なのかわからない。私でなければいけない理由はどこにも見当たらない。
人に迷惑をかけないのが信条なのに、生きているだけで人に迷惑をかけ続けなければならないのはストレスだ。そのストレスから死ぬまで逃れられないというのは酷だ。 いっそ極限まで人間関係を無くせば、誰の気にも留まらず極力迷惑をかけずに生を終わらせることができるのではないだろうか。
そんな風に考えていたときに、「i」と出会った。今思い返しても、それはやはり運命としか言いようがなかった。
西さんの小説には、優さんの歌と同じようなにおいがする。ただありのままを肯定してくれる、優しいにおいだ。誰のことも見捨てない、力強い優しいにおい。
いや、炭治郎かよ!という特定のツッコミはさておき、本当にそう感じるのだ。
前に、私にとってなんでも話せるような、全てを受け止め肯定してくれるような、そんな人はいないのかと友人に聞かれたことがある。
その時の私は、考えなしにいないと即答してしまった。あの日からずっとその言葉を後悔している。
本当にそう思っていたからそう答えたのは確かなのだが、友人の前で言うべき言葉ではなかったし、もっと他にましな伝え方があったのではないかとも思う。
人の心は誰にもわからないし、何をもって信じられるのかも曖昧だが、もしも私が見えていないだけでそうしたいと思ってくれる人がいたとするならば、私がその存在を無視することはその人にとても失礼だと思った。
私はずっと、自分は幸せになってはいけないと心のどこかで思っていた。たぶん、母親に育児放棄されたと知ったときからずっと。両親に望まれて生まれてきたわけではないと悟ったときからずっと。父親の華の20代を私の子育てで奪ってしまったと感じたときからずっと。
私が幸せであるとき、どこかに幸せでない人がいると、とてつもなく居たたまれない気持ちになるのだ。
他者の幸せほど、私の気持ちを楽にしてくれるものはない。良かった、これで私も幸せになれると思えた。安心できた。
だけれど、ひとたびニュースを見れば世界中に不幸はゴロゴロ転がっている。私がのうのうと生きている間に、たくさんの人が死んでいっている。アイの言葉を借りるなら、こんなにたくさんの事件や事故が起こっている中で、私は死ねなかった、死ぬことを免れてきたと感じる。
そうまでして生き残った私にできることは、何なのだろう。私の人生は、何かの役に立てるのだろうか。誰かが生きたかった時間を、誰かが抱いた夢を、誰かが成し遂げたかった望みを、私は何かに昇華できるのだろうか。
「i」を読んでもなお、その答えは見つからない。それでも、やっぱり私にできることを精一杯誠意をこめてひとつひとつやっていくしかないと思う。
amazarashiの、つじつま合わせに生まれた僕等という曲が好きだ。
戦争やテロは絶えない。人類が誕生し、人と人が共同体となって生きた頃から世界平和はただの一度も訪れていないし、人は人と争い、人を憎しみ、人を傷つけ、人をいとも簡単に殺していく。
そんな世界の片隅で、私は今生きている。長い長い人類の歴史のほんの一部分に生きている。
アイは、自分が生きた証に自分の血を分けた子供を欲した。私は子供を産みたいわけではないが、気持ちはとてもわかる。
私がこの世界に私として生きていた痕跡のひとつにこのブログが在ればいいなと思って、ここでは嘘偽りなく思ったことをまっすぐ書いて残しておこうと決めている。
私の思考を詰め込んだブログをいつか一冊の本にできたら、それはアイにとっての子供であり、私にとってのアイデンティティになるかもしれない。私の実態を証明できなくとも、そこに私はいたのだと。
カット野菜の話
先日、こんなことがあった。
父とスーパーへ買い物に行ったときのこと。
父がサラダを食べたいと言うので、私はカット野菜をカゴに入れた。すると父が、「カット野菜って身体に良くないんだよ?なんでか知ってる?」と言ってきたのだ。
その言い方にイラッとしたが、話を聞いたところ、カット野菜は工場でつくられる際にたくさんの薬品(主に防腐剤)が使われ、製造過程でカットした部分から薬品が野菜に染み込んでいるのだという。ゆえにいくらその上から水で洗い流したとて意味がないのだという。
それを最近知った父は、カット野菜はもう食べたくないと言い出し、お前もそう思うだろ?と言わんばかりに同意を求めてきた。
この時の私は、そんなこと心底どうでもよかった。
カット野菜は袋を開けてそのまま皿に乗せるだけで楽にサラダが用意できるし、いちいちまな板と包丁を取り出して野菜を洗って切ってその後調理器具まで洗う手間を省けるので時間と労力が短縮できる優れものだ。
しかも、いつでも値段が安定していて変動が少ないうえに少量なので野菜を中途半端に余らせて捨ててしまうこともない。カット野菜は私の中で合理的に考えて選んだものなのだ。
それを、最近知った知識を披露するかのようにドヤ顔で言われたところで、私が合理的に判断した考えを覆すのは難しかったし、自分は料理をしないくせに口を出してきては自分の考えを押し付ける態度に無性に腹が立ったのだ。
この時は、父に対抗してカット野菜を買って空気が悪くなるのも嫌だったし、かといって普通に丸ごとのレタスを買って手作業でサラダを用意するのも絶対に嫌だったので、今回は買わないという第三の選択をした。
些細な出来事だったかもしれない。けれども、この時のモヤモヤがずっと私の中で残っていて、このモヤモヤの原因は何なのだろうと考えていた。
身近な人ほど、嫌なところが目につくというのはよくある話らしい。距離が近くなればなるほど、人間の心理は相手に自分を見ているように感じ、自分の嫌な部分が相手に写ったように目につくのだそうだ。
だとすると、今回のことは私にも父がしたような一面があって、それを自分で嫌悪してるということなのだろうか。
確かに私は周りの人たちに新しく知った知識を意気揚々と披露していた節があるなと反省した。
相手の気持ちを考えずに、自分の考えが正しいと押し付けていたかもしれない。
当事者でないくせに、口だけ出していたのかもしれない。
自分はいろんなことを知っていて、知らない人に教えられる悦に浸っていたのかもしれない。
父を見ながら、無意識にそんな自分の傍若無人な性格に腹が立ったのかもしれない。
誰かにイライラしたり、モヤモヤしたりするときこそ、自分を見つめ直す絶好の機会なのかもしれない、と思った。
私は自分のことが嫌いだ。そう言いながら自分を守ろうとする心理にも嫌気が差す。結局自分が一番大事で、自尊心を守りたいがために誰かに責められる前に自分で自分を責めている気がする。自分の欠点を冷静に見つめている人を演じていれば、誰も私を責めないとわかって。
本物になりたくて仕方がないのだ。誰に何を言われてもブレない本物の人格者に。だけどそれが怖くてたまらない。できることなら誰にも否定されず誰にも拒絶されずみんなに認めてもらいたい。それを本物とするならば、今の自分は偽物なのだろうか。
私が目指す人格者って何だろうと最近よく考える。相手の気持ちを考えられる人だろうか?相手の話を真摯に聞ける人だろうか?信念を貫いて努力する人だろうか?人のために自分を犠牲にできる人だろうか?
私はどうなりたいのだろう。でもどう頑張っても私は私でしかないはずだ。それって、なんだか虚しい。理想とは違う自分や完璧でない自分を受け入れるのは、とても苦しい。
平凡である勇気を、私はまだ持てていないのだ。誰かの特別になって、誰かにずっと必要とされる存在になりたい。見捨てられるのが怖い。誰かにとって価値のない人間だと思われるのが怖い。だから空気を読んで、自分を隠して、都合の良い人間を演じる。
本当は勉強なんてしたくない。ゲームだけして楽しく生きたい。努力もしたくない。楽して生きたい。だけど人から必要とされるためには教養も必要だし自分を高める努力を避けては通れない。めんどくさがり屋でわがままな自分のままではダメなんだって押さえつけて頑張ってこんなに苦しいなら、人格者なんて目指さなきゃよかった。
誰かに無条件で愛されて無条件で守ってもらえない人生なら、生まれてこなきゃよかった。ひた隠しにしてきた本当の私はこんなもんだ。自分をだましながら生きるのも、理想を演じながら生きるのも、つらい。
愛着障害、なんてものがあるが、そんな言葉で自分を縛りたくない反面、いっそ誰かにあなたは愛着障害だと認定されたい気持ちもある。あぁ、これは不幸を盾にした劣等コンプレックスだ。
何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか。理由を求めすぎるとがんじがらめになる。人はいずれ死ぬし、美しく死ぬために奮闘しているような気もする。
どうしたらこんな自分でもよりよく生きられるのだろう。「自分にとってよりよく生きる」人生のテーマとしてはあまりに普遍的だが、何千年も考え続けられてきたテーマに等身大でぶつかることで何か糸口が掴めたら、と今日も考え続ける。
岸見先生は、 「生きるための指針を明らかにしようとするのが哲学」とおっしゃった。私からしたら、死ぬための指針な気もするが、どちらにしても、今日も私は死ぬために生きている。
もしも地球上に人類が私一人だけだとしたら、私の遺伝子は力強く生き延びようとするのだろうか。死ぬような思いや苦労をしてまで生き延びるくらいならさっさと死んだほうが楽って思いそうだ。
まぁでもとりあえずはいつ死んでも後悔のないように、今に最善を尽くすことだけはしていこうと今思うのだ。
私はどうなったら幸せなのだろう。それすら曖昧なまま今日も私は生き延びる。
あぁ今無性に優さんのライブに行きたい。
他人事じゃなくなった話
祖母が亡くなってから、早ひと月が経った。
家事は女の仕事だ、とは言いたくないが、現状家には私しか女がおらず、自然と祖母が背負っていたものを私が引き継いだ。
家事というのを、いよいよ本格的に担うことになったわけだが、自分の事だと思ってやってみると案外苦痛ではなくなった。
今までは、"祖母に代わって家事を手伝っている"という意識がどこかであったのだろう。だからどこまでも他人事で、最終責任は祖母にあると思っていて、家事の責任と本気で向き合っていなかった気がする。あの頃はひたすら面倒で、なんで私が…という気持ちすらあった。
買い物は祖母が頼んだものを買っていた。献立は祖母の提案か、私の唯一の得意料理だった麻婆豆腐か、すぐにできるインスタントで済ます程度。そのうえ、仕事や勉強が…と理由をつけて毎日はやらなかった。
掃除や片付けは気が向いた時に、やりたいだけやっていた。ゴミ捨ては、毎回だるいなぁと思いながらやっていた。
当時の私にとってはそれでも頑張った方だと思っていたけれど、私の毎日に家事全般が組み込まれるようになってからは"お手伝い"から"自分の日課"に変わって、あの頃は全然やれていなかったんだなぁと痛感した。
家事には終わりがない。けれどもやらなければ安心できるはずの家が汚れるしゴミは溜まるしタスクも増え続ける。
その結果は全て自分の責任であるという意識は、こまめに掃除して負担を分散して軽くすることに繋がったし、もはや自分以外誰も気にかけてくれない健康のために栄養バランスを意識した食材を買って献立を決めるようになった。
それから、あな吉手帳風に日々のToDoリストをつくった。自分で決めたタスクを、達成したぶんだけ達成感が出るようにして、頑張ったら自分にご褒美なんか用意したり。
世の、家事を担う全ての方を改めて尊敬するとともに、あぁ自分もその当事者になったんだなぁとしみじみ感じる。そして、より一層気を引き締めて頑張らないとなぁ…なんて思うのだ。
直近の一番の趣味は手帳を凝ることなのだが、あな吉手帳の知識はそこから得た。料理も掃除も、調べればいくらでも自分にあった方法が見つかる。できない、苦手だと思っていたことも、工夫次第でいくらでもその意識を変えられることを学んだ。
やり方さえ掴めれば、だいたいのことはそつなくこなせる自負はある。プラス、そこに自分の"好き"や"楽しい"があれば、続けられることもわかっている。
まずはやり方を知って、自分流に落とし込んで、楽しみながら続ければそれがいつしか自分の能力として浸透する。
なんだって、最初が肝心なのだという。始めてしまえば、動き出してしまえば、なるようになるものだ。物体にあるように、人の心や身体にも慣性の法則があるようだ。
そして何より、知識が大事だと感じる。ひらめきや直感というものは、なにかしらの経験や知識から派生しているものだ。0から1を生み出す、というのは実際あまりない気がする。
どこかで目にしたもの、どこかで耳にしたもの、どこかで触れたもの。そういうものが少しずつ少しずつ自分の中に蓄積し、それをもとに1を作り出すのだと思う。
極論でいえば、真っ白で何もない無音の部屋で誰とも会わないような生活を生まれたときからしていたとして、何かを思い付いたりするだろうか?おそらくしない。
世の中にあるたくさんの色や形、匂い、音、言葉、情報、様々な要素から人は1を生み出していると思う。
つまり、いろんな物を見たり聞いたり触れたり情報を得たり、そうして蓄えることが知識に繋がり、それを自分や誰かのために活用することが大切なのだと思う。
アイデアを真似することも、悪用しなければそれも才能だと思っているし、真似ているうちにオリジナルに変化することだってよくある話だ。
とりわけ山羊座はこの「真似る」が得意な星座だと思う。誰かのアイデアや思想というのは、過去を生きた誰かが時間をかけて積み上げたものだ。その時間と労力を有り難く自分の力に変える。
山羊座は時間を司ると言われている。限られた時間の中で目標に達するために、そして過去から紡ぐ時間を尊重することができることから、過去から学ぶということを重要視しているのだろう。
そんな山羊座の話はまたの機会にして。改めて、人はいろいろな物事やたくさんの人たちに支えられて生きているのだなぁと実感する。
そして、趣味を通して様々な感性や知識を蓄えていることを誇りに思う。
今はまだ"できない"が多いけれど、少しでもオールラウンダーに近づけるように、日々鍛練と吸収を心がけたいと思う。
他人事、というのはとても楽だが、重みがない。重みがないと、人は体感できない。体感がないと、理解できない。
社会問題、政治や選挙、子育て、家事。過重労働や貧困だって、何事も当事者として体感しなければ想像はできても本当の意味で理解はできないだろう。
「誰かに言われたからやる」とか「○○してあげている」とか、そういう意識がある時それらは他人事だ。
他人軸ではなく自分軸で、どれだけ当事者として体感できているのだろうか。どの程度、人と共感できているのだろうか。どこまで自分の責任として行動できているのだろうか。そう自問し続ける姿勢がやはり大切なのだろう。
今日作った大根の肉みそ炒め煮が我ながら上手くつくれてとても嬉しかった♡料理だって工夫してマスターしてやるぞー!
僕らの平成ロックンロール
久しぶりに、朝井リョウの小説を読んだ。
初めて朝井さんの小説を読んだのは「何者」だった。もう4年も前のことだ。確か、読書大好き芸人という番組でオードリーの若林さんが薦めていたのをきっかけに本を手に取った記憶がある。
「何者」を読んだ日のことは、今でもよく覚えている。4年前、優さんのライブに初めて行くために新潟へ向かうバスの中だった。
読み終えた時、あまりにも自分の身に覚えのある目の背けたくなる側面を露わにされるものだから、叫びたくて逃げ出したくてでも心を掴まれて救われているというなんとも言えない感情に陥った。
それからずいぶんと時間が空き、私自身もあの当時よりも進んでいて、考え方も生き方もきっと変化していて、そんな折に梶さんが書いた本の帯を見かけて久しぶりに読んでみたいと思い、朝井リョウの最新刊を図書館で予約した。
とても人気で、予約してから4ヶ月以上は待った。そしてようやく借りられた本を1週間かけて読んだ。なにせ500ページ近くあるので、時間をかけて少しずつ読んでいった。
誰とも比べなくていい。
そう囁かれたはずの世界は
こんなにも苦しい――
「お前は、価値のある人間なの?」
植物状態のまま病院で眠る智也と、献身的に見守る雄介。
二人の間に横たわる〝歪な真実〟とは?
毎日の繰り返しに倦んだ看護士、クラスで浮かないよう立ち回る転校生、注目を浴びようともがく大学生、時代に取り残された中年ディレクター。
交わるはずのない点と点が、智也と雄介をなぞる線になるとき、 目隠しをされた〝平成〟という時代の闇が露わになる。
今を生きる人すべてが向き合わざるを得ない、自滅と祈りの物語。
南水智也と堀北雄介。
この二人が物語の軸となっていて、二人のいわば「対立」がテーマの基盤になっている。二人の人生を第三者の視点からじっくり追っていくと次第に見えてくる真実。
その書き方が上手すぎて朝井さんやべぇ~~~~天才……………という感想しか出なくなるレベル。
村田さんの小説を読んだ時も似たような感覚がするのだが、たぶん私は、誰かに目を覚まさせてもらいたいのだと思う。
「自分、調子乗ってない?」
「その生き方、かっこいいと思ってるの?」
定期的に、誰かに、揺さぶられたいのだと思う。そうしないと、私はどんどん暴走してどんどん偏っていきそうで。私にとって読書は自己の見直しという意味合いが強い。
今回の「死にがいを~」も、読みながらあぁぁぁぁぁ本当朝井さん………うわぁ……容赦ない………とか言いながらその感覚の悦に浸っていた。
隠しておきたかった、蓋をして直視したくなかった部分を、小さなナイフでじわじわとかさぶたをえぐり取られて内側を表に出されるような、そんな感覚。そのくらいの刺激がないと、私は自分を見失いそうで。
たくさんの人と交流していようがいまいが
人より多くの本を読んでいようがいまいが
良い大学を出て良い会社に就職していようがいまいが
熱心に働いて社会貢献していようがいまいが
海外に出て人生経験を豊富に積んでいようがいまいが
誰かと愛し合い、満たされていようがいまいが
結局人は人の範疇からは抜け出せないし、人間のたった一つの人生で成せることなんてたかが知れていて。
そうなったとき、じゃあこれから自分はどうしようか考えるのが大切なのだろう。
悩んでるこの時間さえも、どんどん流れていく。
日々が流れ、人々の歩みも止まらない。思想や風潮も流れ、時代も流れる。変わることが普遍的な世の中で、変わらないものの価値とは。
今回のテーマは「対立」だが、我々の世代が育った平成という時代はどんどんその「対立」が表面的には失われていった。
けれども水面下では依然存在し続けており、やれインスタ映えだリア充だ自分は生きがいを見つけてキラキラしてますアピールだと形を変えて目に見えない「対立」をしているような気がする。
スペインの哲学者オルテガは、大衆の反逆の中で、「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その意志こそが歴史を背負った人間の美しさだ、と言っている。
そして忘れてはいけないのは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っているということ。数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利。死者たちの試行錯誤と経験知こそが、今を生きる人々を支え縛っているのだと。
明治、大正、昭和、平成、そして令和。このたった150年の間にも目まぐるしく世界は変わっていった。
武士の時代が終わり、外国の文化が流れ込み、人々の民主主義が問われ、痛ましい戦争がおき多くの犠牲者被害者が出た。そして、平和を祈り人々の生活を豊かにするための発展が飛躍した。
令和は、どんな時代になるのだろう。ありのままの自己を皆が認められ、他者を陥れずお互いに尊重しあえる社会になってほしいと私は祈っている。
小さな幸せを見逃さず、ありがとうと大好きで溢れるような、優しい時代になってほしいなと思うのだ。
いつでもどこでも誰とでも繋がれてしまう世の中で、会って直接話したい人とファミレスで何時間もおしゃべりしちゃうような幸せで溢れていますように。
前へ進むほど過去の歴史に救われることを忘れないようにしていきたいと改めて思った本でした。
平成を生きた全ての人に、是非。
─タイトルは大好きな優さんのアルバムのタイトルから。
自省録
令和元年 7月31日 午前1時頃
祖母が、息を引き取りました。
生まれて間もない頃に両親が離婚し、実母の存在を知らずに育った私にとって母のような存在でした。享年75歳でした。
本当に、強い人でした。
自分の欲よりも家族のために長年働き続けた祖母。母親を失った私の面倒を誰よりも熱心にみてくれていました。必死に働きながら息子3人と孫の私を育てあげ、やると決めたことは決して諦めずに最後までやり遂げました。
とりわけ、孫の私には不自由がないようにたくさんの配慮をしてくれて、私のやりたいことはなんでもやらせてくれました。塾も、水泳も、受験も、なんでも好きなようにやらせてくれました。私がつらい思いをさせられたと知れば、私よりも相手に怒ってくれました。私のために、いろいろなことを尽くしてくれました。
私はよく出来た子ではなかったので、計り知れないほどたくさん迷惑をかけてきたと思います。私はずっと祖母の期待を裏切ってばかりでした。やることなすこと全て中途半端で、おまけに家族の絆に執着しない私をみては、きっと心を痛めていたでしょう。
私は私の世界のことでいっぱいいっぱいで、祖母のために何かをしようという気持ちはあまり持てずに生活していました。何かこうしてあげたいと考えついても、落ち着いたら、余裕が出来たら、と先伸ばしにして結局大したことは出来ませんでした。本当に、考えるだけで行動しないということがいかに愚かなことか、痛感しました。
祖母に頼まれた家事や日々の頼まれごとも、正直嫌々やっていました。自分じゃ出来ないから頼んでるの!お願い!と何度も懇願されました。渋々やりつつも、心の底ではとても面倒だと思っていました。きっとそれは伝わっていたのでしょう。最後まで私たちに負担をかけまいと、没後の手はずを自ら整えていました。
そんな祖母の弱点は、素直になれないところでした。嬉しい時も、楽しい時も、あまり表情や言動に表してくれませんでした。プレゼントをしても素直に喜んでくれない。料理を作っても味付けに文句を言う。テストで良い点取ってきても褒めてくれない。旅行に誘っても嫌な顔をする。
自分のために誰かの時間やお金、労力をかけられることを好まない人でした。そういう人だったので、私たちはいつも寂しかったです。子どもだった私は、幼心に愛されていないのではないかとさえ思っていました。
それでも、私たちは祖母にたくさんたくさん愛されていました。それをようやく実感できたのは、皮肉にも亡くなった後でした。口ではあぁだこうだ言っていたけれど、私たちの写真や思い出の品を大事に取っておいていたのを、遺品を整理している時に発見しました。親戚からは、私の知らないところで何度も何度も私の話をしていたエピソードを聞きました。全て、今更でした。今更気づいて泣いたって祖母はもういない。
失って初めて気づく有り難み、というのは知識としては知っていたけれど、実体験に基づいた体感として理解したのは祖母が亡くなってからです。でも、きっとどの人生の選択をしていても、私はここで初めて気づく人生だったのだろうとなんとなく思うのです。それくらい、私にとって祖母は、とても大きな存在なのです。
亡くなる2日前、急激な暑さで祖母は脱水症状になり、様態が悪化しました。その時なぜだか、今話さないと一生話せないような気がして、今の自分の夢や祖母への感謝の気持ちを泣きながら伝えたのです。祖母は苦しそうにしながらも、私の話を聞いてくれました。そして、あなたの好きなように生きなさいと、私の夢を応援してくれました。この時、赤裸々に話すのが照れくさかったけれど勇気を出して伝えられて本当に良かったと思います。
後悔は、上げだしたらきりがないくらいたくさんあります。もっと一緒に話をすればよかった、もっと一緒にご飯を食べればよかった、もっと一緒にいろんなところに遊びに行けばよかった、もっとたくさん祖母のために尽くしてあげればよかった。
今の私ができることは、祖母が遺してくれたものを守ることと、私が私らしく生きていくこと。祖母に恥じない生き方をすること。祖母にしてあげられなかった分、別の困っている誰かに心を尽くしていくこと。そしてなにより、私自身が幸せでいること。そのための努力を惜しまないこと。
後から知ったことなのですが、祖母は若い頃たくさん本を読んでいたようなのです。まるで今の私のように。あぁ、やっぱり何か、血縁というだけではなく何か別の意味でも、大きな影響を与えている繋がりが私たちにはあったのだなぁと感じます。祖母の孫としておよそ四半世紀生きられたこと、祖母の背中から学んだこと、祖母と過ごした数々の思い出、祖母を失い人生で一番泣いたあの夜のこと、祖母の死をもって感じた全てを、どうか忘れずに生きていきたいです。
明日は告別式。本当にいよいよお別れだけれど、祖母の魂はきっとこれからも私を見守っていてくれると信じています。だから、寂しいけど、悲しくはない。たぶん。強がりかもしれないけど、だって、そうじゃなきゃ、人は前に進めないと思うから。
もし魂がめぐりめぐって命に宿り、また人として産まれてきたとしたら、その命を守れる存在で在りたいなと思う私です。保育の勉強頑張ろう。
村田作品 全作レビュー!
こんにちは。最近YouTube動画にハマっている私です。
何度もブログなどで発言している通り、私は村田沙耶香さんという作家の小説がめちゃくちゃ好きである。
去年の7月末に初めて「コンビニ人間」を読んで好きになったのをきっかけに、それから1年かけて現在出版されている11冊全ての書籍を読了した。
そんなわけで今回は!そんな私の大好きな村田作品全作レビューをしていきたいと思います!
※なるべく客観性を持たせたいと思っているけれども、あくまでも読んだ私の主観に基づくレビューになります。
村田作品をタグ付けしていくとするならば、
#人間のあり方
#性のあり方
#偏見
#洗脳
#多様性
#スクールカースト
#コンプレックス
#リアル
#ファンタジー
#SF
#グロテスク
#宇宙視点
こんな感じだろうか?
以下、ジャンル別で紹介していきます。
1. 人間の本質に迫り、生き方や社会について改めて考えさせられる系
①コンビニ人間
#人間のあり方 #偏見 #リアル #多様性
読みやすさ ☆☆☆☆☆☆6
私のオススメ度 ☆☆☆☆☆☆6
村田沙耶香といえば、の代表作。2016年、第155回芥川賞を受賞している。
主人公は36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。
オススメポイントは、なんと言っても読みやすさ。160ページと短めなので私は2時間ほどで読み終えたと思う。
さくっと読めて、それでいて内容は濃い。村田沙耶香ワールドの入り口として最も適しているかなと思う。迷ったらこれ。
正直、コンビニ人間が合わないと感じたら村田沙耶香とは根本的に合わないと思うので、他の作家さんを開拓した方がオススメです。読書はいいぞ。
②消滅世界
#人間のあり方 #性のあり方 #SF #グロテスク
読みやすさ ☆☆☆☆4
私のオススメ度 ☆☆☆☆☆5
セックスではなく人工授精で子どもを産むことが定着した世界。そこでは、夫婦間の性行為は「近親相姦」とタブー視され、「両親が愛し合った末」に生まれた雨音は、母親に嫌悪を抱いていた。清潔な結婚生活を送り、夫以外のヒトやキャラクターと恋愛を重ねる雨音。だがその“正常”な日々は、夫と移住した実験都市・楽園で一変する...日本の未来を予言する傑作長篇。
この作品はテーマがテーマなので性的な表現が多い。また、253ページとコンビニ人間と比べるとしっかりとした重量感があるヘビー級。
消滅世界については2月に書いたブログでも触れており、私の感想はそこに書いているので興味がある方はこちらへ。2月の備忘録 - 絶頂は今
私は消滅世界が村田作品の中でも1,2を争うくらい好きです。
③地球星人
#人間のあり方 #偏見 #洗脳 #リアル #グロテスク #宇宙視点
読みやすさ ☆☆☆☆4
私のオススメ度 ☆☆☆☆☆☆6
地球では「恋愛」がどんなに素晴らしいか、若い女はセックスをしてその末に人間を生産することがどんなに素敵なことか、力をこめて宣伝している。地球星人が繁殖するためにこの仕組みを作りあげたのだろう。私はどうやって生き延びればいいのだろう――。
これも本当に本当に本当に大好きな作品。主人公がとにかく不憫で泣いた。
コンビニ人間でも描かれていた、「みんなと同じでない人はみんなと同じを強要され、それが出来なければ異端者として排除される」という描写が地球星人でも丁寧に描かれており、本当につらい。
人間がどれほど愚かで恐ろしい正義を振りかざしているのかがとてもよくわかるお話。
私の感想ブログはこちら。洗脳 - 絶頂は今
④殺人出産
#人間のあり方 #性のあり方 #多様性 #SF
読みやすさ ☆☆☆☆☆☆6
私のオススメ度 ☆☆☆☆4
「殺人出産」「トリプル」「清潔な結婚」「余命」と1冊の中に4作品も収録されている短編集。
ひとつひとつがさくっと読みやすく、様々な角度から村田ワールドをのぞけるので村田ワールド導入にとてもオススメ。
ただ、私は先に消滅世界やしろいろの~を読んでしまったので逆に物足りなかった。
⑤ タダイマトビラ
#人間のあり方 #性のあり方 #洗脳 #ファンタジー
読みやすさ ☆☆☆☆4
私のオススメ度 ☆☆☆☆☆☆6
自分の子どもを愛せない母親のもとで育った少女は、湧き出る家族欲を満たすため、「カゾクヨナニー」という秘密の行為に没頭する。高校に入り年上の学生と同棲を始めるが、「理想の家族」を求める心の渇きは止まない。その彼女の世界が、ある日一変した―。少女の視点から根源的な問いを投げかける著者が挑んだ、「家族」の世界。
消滅世界や殺人出産などで家族のあり方に既存のイメージや概念を覆す衝撃を受けたが、タダイマトビラはその逆で、その"家族のイメージ"に縛られた主人公の物語。
家族とは、母親とは、父親とは、夫婦とは。
人は人に役名を付けたがる。その役のイメージからずれると攻撃する。その人はその役である前にその人でしかないのに。
村田作品では度々出てくる偏見という名の固定概念。それに苦しむ主人公がついに見た景色とは。
感想はこちら。膨張した胸が痛む - 絶頂は今
2. 学生特有の世界に切り込む系
①しろいろの街の、その骨の体温の
#スクールカースト #人間のあり方 #性のあり方 #コンプレックス #リアル
読みやすさ ☆☆☆☆☆5
私のオススメ度 ☆☆☆☆☆5
クラスでは目立たない存在である小4の結佳。女の子同士の複雑な友達関係をやり過ごしながら、習字教室が一緒の伊吹雄太と仲良くなるが、次第に伊吹を「おもちゃ」にしたいという気持ちが強まり、ある日、結佳は伊吹にキスをする。恋愛とも支配ともつかない関係を続けながら彼らは中学生へと進級するが――女の子が少女に変化する時間を切り取り丹念に描いた、静かな衝撃作。
一言でいうなら、リアル。読んでいて、こんなに自分の過去がフラッシュバックした作品は他にないと思う。
主人公は確かに過激だけれど、コンプレックスを抱え、目に見えないが確実に存在するスクールカーストの中で学生時代を過ごした経験は多くの"女子"が持っていると思う。
この作品を読んでただの物語だと感じる人もいるかもしれない。逆説的にそう思う人は幸運な人だったのではないだろうか。
伊吹くんはめちゃくちゃかっこいいです!!!
文庫版では、作家の西加奈子さんが解説をしてくださっている。それもとても良かったので西さんが好きな人にもオススメしたい。
ただ、解説も含めるとページ数が比較的多いので、2~3日かけて読むのが良さそう。
私が以前書いたこの本の感想ブログはこちら。2月の備忘録 - 絶頂は今
②マウス
#スクールカースト #洗脳 #コンプレックス #ファンタジー
読みやすさ ☆☆☆☆☆5
私のオススメ度 ☆☆☆3
私は内気な女子です― 無言でそう訴えながら新しい教室へ入っていく。早く同じような風貌の「大人しい」友だちを見つけなくては。小学五年の律は目立たないことで居場所を守ってきた。しかしクラス替えで一緒になったのは友人もいず協調性もない「浮いた」存在の塚本瀬里奈。彼女が臆病な律を変えていく。
村田作品の中では珍しくスッキリした終わり方のお話。我が街の市立図書館ではなんと児童書コーナーに置かれていた。
しろいろの~でもそうだが、あの時代特有のちょっとしたきっかけで天国にも地獄にも変わる空間は本当に不思議でならない。
作中に出てくる「くるみ割り人形」のストーリーがわからないと途中で???となる。
刺激はそんなにないので読みやすいが、私には物足りなかった。児童書コーナーに置かれているくらいなので、こどもたちとも一緒に読める作品かもしれない。
3. 世界観が強くて難解な狂気系
①ギンイロノウタ
#性のあり方 #洗脳 #コンプレックス #グロテスク
読みやすさ ☆1
私のオススメ度 ☆☆2
「ひかりのあしあと」「ギンイロノウタ」からなる中編集。
どちらも主人公が救いがなくてつらい。性の発想がエグくて難解。しかし村田沙耶香という作家の根幹はこういう所にあるような気がする。性のあり方への探求とも言うべきか。
読んだあとグッタリする。村田さんの作風に慣れていない人は脱落すると思う。
ただ!!!声を大にして言いたい!!!ひかりのあしあとに登場する蛍くんは他のどの村田作品に登場するキャラクターよりもかっこいいぞ!!!まじで!!!優男!!!一番好き!!!
②ハコブネ
#性のあり方 #多様性 #コンプレックス #宇宙視点
読みやすさ ☆☆2
私のオススメ度 ☆1
セックスが辛く、もしかしたら自分は男なのではと思い、男装をするフリーターの里帆。そんな曖昧な里帆を責める椿は、暗闇でも日焼け止めを欠かさず肉体を丁寧にケアする。二人の感覚すら共有できない知佳子は、生身の男性と寝ても人間としての肉体感覚が持てないでいた―。十九歳の里帆と二人の“アラサー”女性。三人が乗る「ハコブネ」は、セクシャリティーという海を漂流する。
全作読んでから感じるのは、まだ読みやすい方だなということ。
読んだ当時は?????って感じだったけど、他の村田作品を読んでいくうちに村田さんが表現したかった本質がなんとなく掴めてきて、ハコブネもそれから腑に落ちた。
とことん性に関する価値観をいろんな角度から探求していくかんじ。女性だから女性らしく、っていうのは私も納得がいかない。
③星が吸う水
#性のあり方 #多様性 #宇宙視点
読みやすさ ☆1
私のオススメ度 ☆1
「星が吸う水」「ガマズミ航海」からなる中編集。
おおむねハコブネと似たような世界観。性の多様性のお話。私は共感できないままフィニッシュした。
けれども、ギンイロノウタのような狂気はあまり感じないので、気がついたら物語が終わっていたようなポカーンとするかんじ。
ただ、性的表現はかなり多め。
④授乳
#性のあり方 #コンプレックス #洗脳 #グロテスク
読みやすさ ☆1
私のオススメ度 ☆1
「授乳」「コイビト」「御伽の部屋」の短編集。
狂気。本当に狂気。小説家村田沙耶香の痛烈な産声。こんなデビュー作あるか!?と思うほど荒削りな脳直異物作品とでも言うべきか。
それでも、全ての作品に通ずるようなテーマは確かにそこにある。
ここを通ったからこそ今の村田沙耶香があるのだ。ただ、本当に意味がわからない部分が多くあり、頭が痛くなる。
以上です!!!是非!!!自分に合った村田作品を見つけてください!!!そして本の感想を一緒に語りましょう!!!
村田沙耶香はいいぞーーー!!!
性のあれこれ
突然だが、私は生物学上女性である。
昨今、LGBTやSOGIというように性のあり方は多様になっている。
①生まれ持った体の性
②自分が認識する自分の性
③社会から扱われたい自分の性
④言葉遣いの性
⑤服装の性
⑥社会的に果たしたい役割の性
一口に"性"と言っても様々な要素から一人一人オリジナルの性が成り立っている。
上記の性を私自身で考えるなら
①女性
②基本は女性 時々どれでもない
③どれでもない
④どれでもないが強いて言うなら女性的
⑤女性
⑥男女ともである
と現時点での性自認はこうなるだろう。女性の面が多いが、女性はこうだから~というような性別で判断されたり扱われることにとても嫌悪感を抱いている。私は女性である前に、一人の人間である。
⑥については、子どもを守る母性的な役割を果たしながら結婚はせずにバリバリ働きたいので男性的な部分と女性的な部分の両方かと感じている。
私は、自分の性をとても大切に思っている。ゆえに自分の性を他人に消費されるのは我慢ならないし、蔑ろにされるなどもってのほかだ。
性指向についても複雑で、好きになる対象は性別を問わない。所謂、「好きになった人が私の好きなタイプ♡」ってやつだ。
しかし、これまでの傾向としては男性が多い。ただ、その男性は自分と直接関わりのない人ばかりである。
つまり、それらはほとんどフィクションに近く、現実の目の前にいる男性は脳内で役柄を与え間接的に関わることでなんとか関われる状態なのだ。
例えば、この人は男性である前に私の上司である。この人は男性である前に私の職場の同僚である。といった具合だ。
そうするとその役柄をまとったその人だけを見れるし、私自身も女性である前にそこで働く従業員という役柄をまとって関わればいいだけなので楽なのだ。
この"役柄"は制服のようなものかもしれない。
こんな具合で、好きになる傾向はありながら男性への根本的な苦手意識が拭えない私である。どうしてこんなにも現実の男性を自身から遠ざけてしまうのか、冷静に分析してみた。
説その1 小中学生の頃、男子にいじめられたことがきっかけで苦手意識が芽生えた。
説その2 潜在的に、自分の性を脅かす男性が苦手という意識が存在している。
説その3 単純に身体的な力の差で勝てない相手=天敵という考えから、生物としての恐怖感がある。
説その4 歴史的背景を鑑み、武力ではなく言葉での話し合いで問題を解決するのが難しそうという偏見。
説その5 前世で男性にひどい目に遭わされた。
身体的な差や心から信頼できる男性と出会ったことがないことが主な原因だと思うのだが、そもそも信頼って性別で判断していたらできないことだと思う。
つまり、その人を男性である前に一人の人間として尊敬できるか信頼できるかということになるのだが、いくら尊敬していてもどこかで身体的または性的な男性性を感じると一気に嫌悪感が出てくるのだ。私はそこを見ていたわけではないのだから。
総括すると男性っぽくない男性が好きというよくわからない結論になる。
確かに好きな人の見た目のタイプは女顔、丸顔、低身長、童顔だ。かっこいい人よりもかわいい人が好きで、固い人より柔らかい人が好きだ。更に中身がかっこいいとキュンとする。そうだ、和泉三月だ。
えぇ~~~~~~?三月ちゃんが最強じゃ~~~~~~ん!?というオタク丸出しの結論になってしまった。和泉三月ちゃんあまりにも理想そのもの……
誰にでも、理想はあるはずだ。そこにどれだけこだわるかは人それぞれだと思う。私は、ガッチガチにこだわるタイプだと自覚している。だって山羊座だもーん。
結婚願望がない私でも、もし結婚するならこんな人が良いなぁなんていう妄想くらいはする。月星座魚座だからね。
そうすると一番に出てくるのが「性の匂いがしない人」なのだ。同じ家で暮らしていて、生活に性的な要素がないこと。
家族のあり方については村田沙耶香さんの小説の影響をかなり受けており、結婚生活において一番に求めることは「安定と安心」なのだ。同じ空間にいて、警戒しなくて済む存在でないと結婚はできないと思っている。声が柔らかくて、笑顔が優しくて、一緒にいて癒される人。威圧で人を操作するような人とは対極にあるような人だ。刺激は趣味で摂取するので。三月ちゃ~~~~~~ry
他にも、フェミニスト(ここでいうフェミニズムとは、 性別を問わず皆がその人らしく生きられる性差別のない社会を目指す思考のこと)、一緒に哲学や政治、世論について議論できる人、本をたくさん読む人、保育とこどもの発達に理解がある人、一緒に運動してくれる人、経済的に安定している人とか挙げればきりがないかもしれない。
そんな人いるわけないよ~~!現実見なよ~~!とか言うような人とは価値観が合わないですね。もしいたらそっと心の扉を閉じます。信頼は地に。そしてそれは二度と回復することはないでしょう。
理想を持つことも、理想にこだわることも、私の自由であり誰かに指図されて良いものではない。もちろん、私も誰かの思想や理想に口出しをする権利はない。
現実なんて日々痛感してますよ。それでも、理想や夢を掲げなければ私が私らしく生きられないのです。そこも含めてまるごと私の生き方、考え方を尊重してくれる人しか"何者でもない私"の周りにはいないと信じています。