絶頂は今

好奇心と探究心。

生きるということ


 朝井リョウの「どうしても生きてる」を読んだ。

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 死んでしまいたい、と思うとき、そこに明確な理由はない。心は答え合わせなどできない。『健やかな論理』
 家庭、仕事、夢、過去、現在、未来。どこに向かって立てば、生きることに対して後ろめたくなくいられるのだろう。『流転』
 あなたが見下してバカにしているものが、私の命を引き延ばしている。『七分二十四秒目へ』
 社会は変わるべきだけど、今の生活は変えられない。だから考えることをやめました。『風が吹いたとて』
 尊敬する上司のSM動画が流出した。本当の痛みの在り処が映されているような気がした。『そんなの痛いに決まってる』
 性別、容姿、家庭環境。生まれたときに引かされる籤は、どんな枝にも結べない。『籤』


 「どうしても生きてる」は、6つの物語からなる短編集だ。どの物語も、人が人らしく生きていく中で、一度は感じたことのある感情を引き伸ばされたような、共感と呵責が渦巻くこれぞ朝井リョウ!と唸るものだった。
 私は読みながら、朝井さん~~~~~!なんでそんなにシビアなの~~~~~!と泣きつきたくなった。けれど、私は彼の小説を読むたびに痛い所を突かれて瀕死状態になっても、これを読まずにいたままの方が恐ろしいと思わされるし、だからこそ辛いとわかっていてもやめられない。

 朝井さんはそこら辺に転がっている、でも人々が見てみぬふりをしている感情を丁寧に拾って、変に脚色せずありのままの現実を突きつけてくるような文章を書かれるなぁといつも思う。
 「どうしても生きてる」の中で、私の心に特に刺さったのは『風が吹いたとて』と『籤』だ。

自分の誠実さに酔うのは、目の前の話を片付けてからにして。

何もしないということで、誰かが破ったルールの上を、快適に歩いている。
それがいけないことだなんて知ってる。気づいてる。でも、考えなければならないことでぎゅうぎゅうづめの明日が、すぐ目の前に迫っている。

自分はこんなにも醜いのだ、ということを明かしたところで、本当は何の区切りもつかない。なぜ、吐露した側はそこで悦に入ることができるのだろう。こんなにも醜い部分を曝け出せたという点を、自分の強さ、誠実さだと変換して勘違いできるのはどうしてだろう。そして、さもその1秒後から新たな自分が始まるとでも思っているらしいことも、不思議だ。

 ドキッとした。私は私の誠実であろうとする態度に酔って、他人のことなんか考えられないほど余裕のない人にまでこの世の不条理に対する議論や倫理観を押し付けてはいないだろうか、と。
 そういう意味では、私はとても恵まれていると思う。実家暮らしで、結婚もせず子どもがいるわけでもない。仕事も一日に何時間か働くだけでさして重労働ではないし、休みもきちんと取れて睡眠も食事も健康的に取れている。趣味の時間も確保できていて、物事について哲学的に考える余裕もある。
 自分が感じたことをまとめただけの、こんなブログを書くくらいの余裕は、確かにあるのだ。

 誰もが自分と同じように考えられるわけではないのだ、と突きつけられた感覚がした。当たり前のことなのに、自分の考えを理解してもらいたい気持ちでいっぱいで、意識はするものの事実読み手聞き手の立場や気持ちまで考えが及ばなかった。
 つい先日BFとジェンダー問題の記事で相手の立場に寄り添う姿勢が大切だと偉そうに書いていたくせに、痛い所を突かれないとわからない。結局私という人間はその程度のものなのだ。
 あぁ、また朝井さんに救われたな、と思った。

 『籤』では、人生のハズレくじを引いた人物の心境が細密に描かれている。自分の力ではどうにもできない選択肢を選ばざるを得なかった人たちの、それでもその道で生きなければならない心境が。
 私は、これらのハズレくじは人々が抱えている呪いと似ているな、と思った。

 この世には、目に見えない呪いがたくさん存在していると思う。『籤』の主人公みのりにとってそれは、女の子だからという理由でサッカークラブに入れなかったこと、同じ顔立ちなのに双子の兄は凛々しいと言われ自分はゴリラと言われたこと、進路も家での役割も兄に選択肢を奪われたこと、確率の低いはずの不運に見舞われること、これらが重なり夢も希望も諦めて生きることに慣れてしまったことだと思う。

 呪いについて考えるとき、私は学童で関わっている子どもたちのことを想う。私が今学童で働いていて感じることは親(家庭環境も含む)から子への呪縛が少なからず皆あることと、それが潜在的にその子の生き方になっているということ。問題を起こす子も、そうでない子も、皆。
 それは、みのりが兄に選択肢を奪われたように、母親のいない生活を受け入れざるを得なかったように、それぞれが抱える抗えないハズレくじのような呪いだ。親や兄弟の都合で学童に入れられた子、自分に求められた役割を考える前に受け入れている子、グレーゾーンも含め特別な支援を必要とする子、本当にいろんな子があそこには集まっているなと感じる。
 学童という場所で働きだしてから、余計に自分自身の過去やこれまでの人格形成について考えることが多くなったように思う。事実、私も小学生の頃学童にお世話になった身であるし、当時の自分と似たような境遇にある子どもたちが学童には少なくない。だからこそ共感し、自分の過去とリンクさせてしまい、考えることが増えたような気がする。

 私が社会や親から引き継いだ呪いは
「人に迷惑をかけてはいけない呪い」
「無責任に子どもを産んではいけない呪い」
他にも大なり小なり呪いはあるが、今でも強い影響力があるのは特にこの二つだと思う。

 「人に迷惑をかけてはいけない」
 その言葉は物心ついた頃から、忘れっぽい私でも古い記憶の中に残っているもので、たぶん耳にタコができるほど言われてきた言葉だ。
 私の育児、家庭での教育は祖母が主にしてくれていた。祖母は大変厳格かつ真面目な人で、よくこの言葉を私にかけていたと思う。
 そうして育った私は今その言葉に縛られ、迷惑をかける人を許せなくなり、私自身も迷惑をかけてしまうことに強い罪悪感と自己嫌悪感を抱くようになり、果ては無意識のうちに他者にまでその基準を当てはめてしまう呪いを抱えてしまっている。ハズレくじで言うならば、「人に迷惑をかけたら責められる」くじだろうか。この"責められる"というのは、記憶の中の祖母から、そして無意識の領域にいる迷惑を許せない自分自身から責められることを指す。

 極限まで人に迷惑をかけないように生きようとすると、結局人と関わらないのが一番効率的だし確実で。自分の浅はかな言動によって誰かが傷ついたり不快な思いをするくらいなら、初めから誰とも交流しないのが最適解ではないか。
 そうして自分の卑小な本性を出さないように限られた相手以外には心を許さないし警戒するし神経質になる。友人に対しても常に気を遣い、本当の意味で何も気にせずリラックスできるのは一人でいる時間だけになる。
 もし、「人に迷惑をかけてもいいが、自分が迷惑だと感じても相手を許すのだよ」と教えられていたら、今どうなっていたのだろう、と考える。
 育児や教育に絶対的な正解はないとはいえ、そうでなかった道を考えてしまうのは愚かな人間の性だろうか。

 そして無責任に子どもを産んではいけない呪い、これは私ひとりではどうしようもない呪いなので半ば諦めているものだ。
 両親に望まれず産まれたこと、実母に育児放棄されたこと、どう足掻いても変えようのない事実から放たれた呪いの強さは年々私を縛りつけているような気がする。そして、精神的につらくなると毎回必ず「生まれてこなければよかった」に帰着する。
 この呪いは、無責任に産んでおいてこの世界での苦しみは押し付けたまま放置なのか、という親への恨みでもあり、自分は親のようには決してならないという復讐なのだろうと感じている。そしてそんな真っ黒な感情を理論という盾で覆いながら他者にまでぶつけてしまっている。だけど本当にこれ以上自分と同じように苦しむ子どもを増やしたくないのだ。どうしたらいいんだ私は。

  私だって、「自分が母親になったら我が子にしてあげたいこと」みたいな幻想は昔から持っていたし、今でも素敵な本や音楽に出会ったら子どもたちにもこの世界の素晴らしい文化を伝えたいなとか、自分が子育てするならこうしたいなとか想像したりすることがある。でもだからといって本気で産もうとか本気で自分の子を育てようと考えるのは難しく、理想と現実の壁は大きいしキラキラしたことだけではないからこそ責任を持てない。そしてやはり最後まで責任を持てないのなら始めるべきではないと思ってしまう。第二の"私"を産み出したくない、という気持ちが私の心を支配する。
 生まれ変わったらこんな私でも良い母親になれるのだろうか。私が引いたハズレくじに書かれていた「家庭円満を知らない人生」の文字は、いつしか母親になることを諦めさせた。
 それとも女として産まれたなら母親になるのが自然という価値観に私も未だに縛られているだけなのだろうか。

 20歳頃までは「他者(とりわけ男性)に好まれる外見や中身でないと愛されない呪い」も持っていたけれど、様々な本や呪いを解いてくれる人たちの影響を受けながら、時間をかけてそれはほとんど解消できたと思っている。
 もしもこの先、あの強い呪いたちを解くきっかけがあって、時間をかけて解けたとしたら、その時初めて本気で迷惑をかけてでも人と繋がることや子どもを産んで育てることについて考え始めるスタートラインに立てるのかなと思う。

 コンプレックスというものは、裏を返せばその人が一番関心を持っているということだし、その事柄について正しい知識や自分を守る情報を得ることで呪いを少しずつ解いていけたらいいなと思うのだ。
 そういう意味でも、私は哲学に興味があるし、性教育にも関心を持って少しずつ、学んでいるところだ。
 生まれてきて良かったと思うことはほとんどないけれど、私が学び感じたことを発信することで誰かの心に響いたり、誰かの救いになったなら、それが一番生きてて良かったと思えることなのだろうなとぼんやり思う。

 私はこれから先も、たぶん何も成し遂げないし社会的な何かを手に入れることはない気がする。けれども、何も持たない方がいつ死んでも未練がないから気が楽だ。私の呪いは、責任を持って私自身で墓場まで持っていこう。
 今はただ、私の呪いのせいで誰かを傷つけたりしないように、慎重に生きていきたいなと思う。

 アッシュは「死を恐れたことはない、だが死にたいと思ったこともない」と言っていたけれど、私はずっと死んだ方が楽だと思って生きてきた。それでも、死ぬ勇気もなければ死ぬ努力もしなかった。中途半端なままなんとなくここまで生きてきてしまった。死にたくなるような出来事が起きても、それでも生きてきた。

 今の私は読書が好きで、考察することが好きで、文章を書くことが好きだ。そうすることが私にとって"生きてる"と実感できることのような気がする。
 このブログは私の思考そのものだし、私の魂と言っても過言ではない。魂とは、肉体に宿るものではなく、思想や言葉に宿るものだと思っている。

 何も考えられなくなったとき、私にとってそれは死ぬことと同義なのだと思う。だから考え続けている限りは、私はどうしても生きてるのだろう。