絶頂は今

好奇心と探究心。

自己肯定感マイナス人間の修行


 私は、自己肯定感/自尊感情(self-esteem)が低い人間である。

 基本的には自分には価値がないと思っているし、成果をあげないと誰からも必要とされない人間だと思っている。自分自身に自信なんて1㎜もないし、コンプレックスまみれでもはやコンプレックスで武装してますみたいな落武者のような人間だと思う。

 いつからこういう思考になったのかは覚えていないけれど、他人と比べて生きるようになった頃からの癖みたいなものだと思う。
 私には母親がおらず、それだけでも自分は普通じゃないんだって思って育ってきたし、小学生~中学生の頃にいじめられた時は自分は人に嫌われる存在なんだって思ったし、大学中退をした時は多くの人が通れる道さえも通れない低レベルな人間なんだと思った。
 この世界のあらゆるものが敵に見えたし、自分は自分、他人は他人、人と比べても良いことなんか一つもないって考えようとしても、ちょっとしたきっかけ一つで自分はダメな人間なんだなって思ってしまう。

 こんな自分を克服したくて、自分に自信を持ちたくて、自粛期間中に筋トレを始めた。始めてから徐々に前向きになっていったけれど、身体は変わっても心まで変えるのには時間がかかるよう。ここ最近人から言われた言葉に揺さぶられて、強くなったと思った心が脆く崩れてしまった。もう私のライフはゼロよ~~~~……助けて亜貴ちゃん……

 「こうしてほしい」は「こうできない君は無能だ」に聞こえるし、「期待してるね」は「期待通りにできなかったら無価値だ」に聞こえてしまう。どちらも、今の私のままではダメだと否定されている気がしてしまう。
 おまけに人に頼れない、人に相談できない性分だからいつも自分で考えて自分なりに答えをだして生きてきているのに、何かあったらいつでも相談してねと言われるとモヤモヤする。簡単にできるならとっくにそうしている。したくなくてしてないんじゃない、できないからしてないのだ。
 相談できない理由はいろいろあるけれど、私の場合相談したところで自分で変わらなきゃ意味がないと思っているからだし、何よりも相談してアドバイスをもらうとき今の自分を否定されたくないから。今の自分を作ってきた過去を否定されたくないから。
 私はすごく弱虫だし臆病だし自分に自信がないから、否定されると途端に死にたくなる。だから自衛するし距離を取るし回避する。自分を守れるのは自分しかいないから。

 とは言いつつ、だから自分は人間関係が下手くそで、そんな自分と周りの人に頼りながら上手く生きてる人とを比べて落ち込むんだなぁと思うと不毛だ。
 人にはそれぞれペースがあって、それぞれに生き方、考え方があって、誰一人として同じ人生なんてないのに、どうして人は人と同じであることに意味を見出だしてしまうのだろう。

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 先日、ハ・ワンさんの「あやうく一生懸命生きるところだった」(原題:하마터면 열심히 살 뻔했다)というエッセイを読んだ。

 この本の中で、著者のハ・ワンさんは競争社会のレースから外れ、仕事を辞めて自由気ままに生活をしながら感じたことを綴っている。

 "努力は必ず報われるわけじゃない"
 "ほかの選択肢はないという「執着」"
 "「何もしない」とは究極の贅沢"
 "ないならないなりに暮らせばいい"
 "若い頃には戻れなくていい"
 "何かを失うと、何かを得られる"

 上記の目次の見出しだけ見てもあぁ~これ絶対好きだ、と確信して私はこの本を手にした。
 中でも、「なんで結婚しないの?」という章についてはアルさんばりに膝パーカッションを打った。
 「結婚しないのには自分なりの理由があるのだが、それをすべての人に説明し、許可を得ないとダメなのだろうか。」
 もう~~~~~わかりみof the worldすぎて頷きすぎて首がもげそう。

 私もいちいち聞かれる度に全員に説明するのは面倒なので、ここに今の気持ちを書き記して聞かれたらこのブログのURLを送ろうかと思う。

 私が今結婚する気がない理由は、主に2つ。

 ①今の生活スタイルに満足しているから
 ②子どもを産むつもりがないから

 ①については、今の暮らしを無理して変えたいほどの不満はないし、慣れ親しんだ場所で慣れ親しんだ相手とほど良い距離感で暮らせているから。
 その生活は25年かけてようやく今に落ち着いたものなのに、新たに誰かと別の生活をするというのはまたそのステップを踏まないといけないのでシンプルにめんどいなと思う。最短ルートで心地よい関係を築けるなら今頃コミュ障はとっくに改善しているはずだし、人間関係だって円滑に築けていたはずなのだ。

 私は昔から一人で過ごすことに慣れていて(一人っ子という環境+生まれ持った性質のため)、自分の部屋で自分だけの時間を過ごすことに安心感を抱いている。それができなくなるようなら結婚はむしろストレスなのでは?と思う。
 この考え方に理解がある人がどれだけいるかは知らないが、もし仮に私の考えが受け入れられて、お互い干渉もしないし四六時中一緒にはいたくないから部屋も役割も食事も別々にしようってなったとして、それもう結婚する意味ある?と思う。

 そもそも、恋人や配偶者を作るメリットが私にはあまり無く、つらい時に支え合ったりお互いを思いあって癒されたりする関係を求めるなら友達やペットじゃダメなのだろうか?恋人である必要性、配偶者である必要性はどこにあるのだろうか。
 私はなにも異性だけを性的対象にしているわけではない。というか性的対象って言い方があまり好きではない。好きな人は好き、そうじゃない人はそうじゃないというだけ。性別だけで好きな人を限定したくないと思っているし、好きだからといって性的欲求を抱くわけではない。

 結婚にプラスのイメージを持っていないのは、昔から家族や親戚がみな夫婦仲がいまいちで父の兄弟はもれなく全員離婚していて、そんな環境で育ったことが起因していると思う。(私の両親の離婚については以前のブログに詳しく書いています。)所詮他人と他人、お互いに歩み寄れないならそりゃあ他人と一緒にいるなんて不可能では。
 石橋を叩いて叩いてそれでもリスクがあるなら別の道を探しだすタイプの人間なので、ハイリスクハイリターンな人間関係は気苦労が多くて疲れそうだなと感じる。

 ②に関しては、子どもはめちゃくちゃ大好きだけど、プライベートで子育てに費やす時間と労力に魅力を感じない。
 社会的にもまだまだ妊婦や子育て中の保護者に対する理解や思いやり、保障制度などが十分でないと感じるし、妊娠、出産、子育てで生じる肉体的負担、精神的負担、経済的負担は計り知れないし、それと子どもを産む選択肢を天秤にかければ子どもは望まないと思うのはそんなにおかしなことではないと思う。

 確かに、親になって子育てをして初めてわかること、体感をもって理解できることはたくさんあると思う。それは唯一無二のものだろうし、生き物を股から産み落として、そこから育てて人格形成に影響を与えるなんてとてもじゃないが私にはできないと思うし、人を一から育てた経験値に私は一生敵わないと思う。
 純粋に、荷が重すぎる。今はただ、自分の好きなように生きたい、自分で自分を一番に大切にしたい。ずっと自分のことが嫌いで、誰からも愛されないんだと思ってきた私だからこそこれからは自分を愛していきたいし、今はその修行中なのだ。

 それから、我が子に私の責任を押し付けたくないという気持ちもある。自分の老後や死後に迷惑をかけたくないし、親は産む産まないを選択できるけれど、子どもは出生も親も選べない。
 私は自分のしたいこと、自分の好きなことを最優先したいし、だけどそのせいで誰かの時間や誰かの思いを犠牲にはしたくない。私は私の責任において、私の人生を楽しむことを選びたい。

 万が一子どもが欲しくなったら、私はきっと養子縁組を考えるのだろうなとぼんやり思っている。新しく生まれる命よりも、今生きている命を大切にしたいと思う。
 女として生まれたなら子どもを産むべきだとかいう人には、じゃああなたが産んでください、妊娠してから子どもが成人するまでにかかる費用も全部自己負担で、何があっても自己責任で。ってかんじなのでフルシカトしますね。

 両親に望まれず産まれてきた子どもがどんな気持ちで子ども時代を過ごすのかは私自身が身をもって痛感してきた。
 頼むから、子どもを望まないなら低用量ピル&コンドームで避妊をしてくれ。IUD/IUS、子宮摘出、男性ならパイプカットをするという選択肢もある。調べれば、避妊する方法はすぐに見つかる。
 そして子どもを望むなら、相応の覚悟をしてほしい。親の身勝手で不幸になる子どもをこれ以上増やしたくない。子どもは親の所有物ではないのだから。

 なんて、偉そうに言ってるけれど、これはきっと私のコンプレックスなんだろうなと思う。自分の出生や育ってきた環境にコンプレックスを感じていて、だからそれに反抗して意地でも自分はそうなりたくないと思っているのだろう。
 親や家族には感謝してるけれど、それは産んだことではなく育ててくれたことであって、そもそも17と22で妊娠してなんでおろさなかったのだろう?と思う。おかん(会ったことないけど)当時高校生でしょ?25年経ってもやっぱり理解できない選択だなと思うのだ。こんな私は無慈悲なのだろうか。
 それで良いよって、そういう私だから好きだよって言ってくれるような優しい人はそうそう現れないので、自分で自分を肯定していくしかないんだろうなぁ。

 子どもはどんな環境であっても、順応したり自力ないし周りの人の力で良い方向に進んだり、強く生きていくことはできると思う。現に私は25年も生きてこられた。
 それでも、0スタートとマイナススタートでは、後者のほうが0地点に追い付くためにしなくてもいい努力や費やさなくてもいい時間が必要で、それは本来なら0からプラスに働いたかもしれない部分だ。だからこそ、大人が、親が、マイナスを無くしていったり減らしていったり埋めてあげたりしていく責任があると思っている。
 苦労は糧になる?その糧って生きていくのになくてはならないもの?子どもにとっての最善の利益を考えるのが子どもを取り巻く社会の、大人の務めではないのだろうか。

 できないことは約束しない。無責任なことはやらない。自分の心に誠実であること。私にとって重要なのは、ただそれだけなのだ。

 負けるのが嫌だからジャンケンはしたくないと言っているのに、「勝つ喜びはいいぞ」とか「勝ったことがないなんて可哀想」とか、なんで勝つことこそが一番で、負けるリスクを背負ってまで勝つことを強要されなきゃいけないのだろう。
 恋愛、結婚、出産は私にとってはジャンケンと一緒で賭けだと思う。自力ではどうにもならないことが多すぎる。ほぼ運ゲーだと思う。負けるくらいなら勝負をしないというのも一つの手だと思うのだ。
 私は、勝ち続けることよりも好きなことして生きてる方が気が楽だし、それはそれで楽しいし満足してるんですけどね。
 もちろん、ジャンケンしたい人はすればいいし、私がそこについてどうこう言うのは違うと思う。
 他人がジャンケンするかしないかはその人の勝手だし、それで負けたからってそれはその人のジャンケンをすると決めた結果であり、受け止めるべきものだと思う。

 株式投資の世界では勝つことよりも負けないことの方が重要視されているのに、なぜ人生は勝つことばかり主張されるのだろうか。勝たない選択肢だってあるのに。

 はぁ、なんだかもう自分が何を言いたいのかわからなくなってきてしまった。結局私自身もこれからどんなふうに生きていきたいか、まだ明確な答えは出せていなくて、だけどこれだけは譲れないという信念だけは固くて、我ながら面倒くさい人間だなぁと思う。

  これからもいろんなことで悩んで、何が最善なのかがわからなくなって頭を抱えることもあるだろう。それでも、私は考えて考えて考え続けて、こうしてその都度自分の気持ちを言葉にして表現して、"その時の最善"を尽くしていきたいと思うのだ。
 人生25年目。私の自分のありのままを認めて自分を愛する修行はまだまだ先が長く遠い道のりである。