膨張した胸が痛む
シンプルに、ゾッとした。
"家族"に飢え、"家族"を渇望し、"家族"を脳内で補完し、"家族"を維持するために努力する主人公が、"家族"という名の幻想から一気に目が覚めて人間ではなくヒトに帰っていく描写が実に村田さんらしくて脱帽した。
ひとつきぶりに摂取した村田さんが描く物語は、私の脳にガツンと衝撃を与え、ぐったりするほどずしんと心を重くした。
今までで一番「自分が嫌になるから読まなきゃ良かった」と「読まなければそれに気づかないままだった」がごちゃ混ぜで、考えれば考えるほど泥沼で、何が正しくて何が間違いなのか、どれが正解でどれが幻想なのか、本当に何もかもがわからなくなる感覚に陥った。
村田さんが描く、日常にはびこる幻想が毎度毎度本当にえぐい。そこに嫌でも気づかされる。
私もヒトが生み出した「人間らしい温もりのある家族というコミュニティ、営み」を実は誰よりも求めていて、だけどそれがすぐに手に入らないから疑似体験できる仕事を選んだのかと思うと、自分にゾッとした。怖い。
「違う、そんなつもりじゃない、純粋にこどもが好きだからこどもたちのために自分ができることがしたくて選んだんだ」って反論しても、「本当に?内心は、こどもたちに自分の母性を求められることで自己満足したいだけなんじゃないのか?」って問い詰める声が聞こえてきて自分で自分を信じられなくなる。
ずっと、憧れていたんだと思う。優しくて素敵なお母さんがいて、かっこよくて頼りになるお父さんがいて、二人はとても仲が良くて家族皆がなに不自由なく幸せに暮らしている、そんな光景を。たぶん、昔からずっと。その光景の中に、疑似でも入り込みたかったのだ。
もしそうなら、私は壮大な"おままごと"で理想の母親を演じることで満たされたい幼女みたいだ。
こどもたちを利用して、ずっと欲しくてたまらなかった自分の中の「家族欲」を処理しようとしているだけなのか。
本当の結婚はせず、あくまで温かな家族のようなおままごとの中で満足したいのか。
母親というものがどういうものなのか、私には本当の意味では一生理解できないし、ずっと一緒に暮らしてきた父親も私が理想とする父親像とは程遠い。
笑い合う声も聞こえない、温かな食卓も無い、ただヒトが何匹か同じ巣で生きているだけの場所。それで良いと思ってた。だけど本当はドラマで見るような温かな家族の光景を、誰よりも渇望していたのかもしれない。
しかし本当にそんな「優しくて素敵なお母さん」や「かっこよくて頼りになるお父さん」は存在するのか。男性だの女性だの性別というカテゴライズで区別され偏見を持たれることを嫌っている私が、誰かを「母親」「父親」とカテゴライズして偏見を持ってそこからずれただけで勝手に失望するのか。
なんて、身勝手なんだろう。
自分の女性性や母性を離さないように必死になって掴んで育てて、恋愛も結婚も興味ないと言いながら異性に自身のそれらを否定されることを恐れ女性であることに固執している中途半端な存在が今の私だ。
結局私は何になりたいんだろう。きっと何者にもなれないのだろう。唯一無二になりたいくせに、誰かにカテゴライズされた上で必要とされたいだなんて。
村田さんがあるインタビューで「"見初められる"ってなんておぞましい言葉なんだろう」とおっしゃっていた。私もそう思っていたはずなのに無意識のうちにそれを望んでいたのか。
物語の終わりかたも私の思考の終着点も見えなくて途方にくれている。今見えている部屋の景色でさえもすべて幻想なのか。
ホルモンが放出され、いつも以上に膨張した胸が痛む。私の女性性は、母性は、一体何を目指して膨らんでいるのだろうか。