絶頂は今

好奇心と探究心。

カット野菜の話


 先日、こんなことがあった。

 父とスーパーへ買い物に行ったときのこと。
 父がサラダを食べたいと言うので、私はカット野菜をカゴに入れた。すると父が、「カット野菜って身体に良くないんだよ?なんでか知ってる?」と言ってきたのだ。

 その言い方にイラッとしたが、話を聞いたところ、カット野菜は工場でつくられる際にたくさんの薬品(主に防腐剤)が使われ、製造過程でカットした部分から薬品が野菜に染み込んでいるのだという。ゆえにいくらその上から水で洗い流したとて意味がないのだという。
 それを最近知った父は、カット野菜はもう食べたくないと言い出し、お前もそう思うだろ?と言わんばかりに同意を求めてきた。

 この時の私は、そんなこと心底どうでもよかった。
 カット野菜は袋を開けてそのまま皿に乗せるだけで楽にサラダが用意できるし、いちいちまな板と包丁を取り出して野菜を洗って切ってその後調理器具まで洗う手間を省けるので時間と労力が短縮できる優れものだ。
 しかも、いつでも値段が安定していて変動が少ないうえに少量なので野菜を中途半端に余らせて捨ててしまうこともない。カット野菜は私の中で合理的に考えて選んだものなのだ。
 それを、最近知った知識を披露するかのようにドヤ顔で言われたところで、私が合理的に判断した考えを覆すのは難しかったし、自分は料理をしないくせに口を出してきては自分の考えを押し付ける態度に無性に腹が立ったのだ。

 この時は、父に対抗してカット野菜を買って空気が悪くなるのも嫌だったし、かといって普通に丸ごとのレタスを買って手作業でサラダを用意するのも絶対に嫌だったので、今回は買わないという第三の選択をした。
 些細な出来事だったかもしれない。けれども、この時のモヤモヤがずっと私の中で残っていて、このモヤモヤの原因は何なのだろうと考えていた。

 身近な人ほど、嫌なところが目につくというのはよくある話らしい。距離が近くなればなるほど、人間の心理は相手に自分を見ているように感じ、自分の嫌な部分が相手に写ったように目につくのだそうだ。

 だとすると、今回のことは私にも父がしたような一面があって、それを自分で嫌悪してるということなのだろうか。
 確かに私は周りの人たちに新しく知った知識を意気揚々と披露していた節があるなと反省した。
 相手の気持ちを考えずに、自分の考えが正しいと押し付けていたかもしれない。
 当事者でないくせに、口だけ出していたのかもしれない。
 自分はいろんなことを知っていて、知らない人に教えられる悦に浸っていたのかもしれない。
 父を見ながら、無意識にそんな自分の傍若無人な性格に腹が立ったのかもしれない。

 誰かにイライラしたり、モヤモヤしたりするときこそ、自分を見つめ直す絶好の機会なのかもしれない、と思った。

 私は自分のことが嫌いだ。そう言いながら自分を守ろうとする心理にも嫌気が差す。結局自分が一番大事で、自尊心を守りたいがために誰かに責められる前に自分で自分を責めている気がする。自分の欠点を冷静に見つめている人を演じていれば、誰も私を責めないとわかって。

 本物になりたくて仕方がないのだ。誰に何を言われてもブレない本物の人格者に。だけどそれが怖くてたまらない。できることなら誰にも否定されず誰にも拒絶されずみんなに認めてもらいたい。それを本物とするならば、今の自分は偽物なのだろうか。

 私が目指す人格者って何だろうと最近よく考える。相手の気持ちを考えられる人だろうか?相手の話を真摯に聞ける人だろうか?信念を貫いて努力する人だろうか?人のために自分を犠牲にできる人だろうか?

 私はどうなりたいのだろう。でもどう頑張っても私は私でしかないはずだ。それって、なんだか虚しい。理想とは違う自分や完璧でない自分を受け入れるのは、とても苦しい。

 平凡である勇気を、私はまだ持てていないのだ。誰かの特別になって、誰かにずっと必要とされる存在になりたい。見捨てられるのが怖い。誰かにとって価値のない人間だと思われるのが怖い。だから空気を読んで、自分を隠して、都合の良い人間を演じる。

 本当は勉強なんてしたくない。ゲームだけして楽しく生きたい。努力もしたくない。楽して生きたい。だけど人から必要とされるためには教養も必要だし自分を高める努力を避けては通れない。めんどくさがり屋でわがままな自分のままではダメなんだって押さえつけて頑張ってこんなに苦しいなら、人格者なんて目指さなきゃよかった。
 誰かに無条件で愛されて無条件で守ってもらえない人生なら、生まれてこなきゃよかった。ひた隠しにしてきた本当の私はこんなもんだ。自分をだましながら生きるのも、理想を演じながら生きるのも、つらい。

 愛着障害、なんてものがあるが、そんな言葉で自分を縛りたくない反面、いっそ誰かにあなたは愛着障害だと認定されたい気持ちもある。あぁ、これは不幸を盾にした劣等コンプレックスだ。

 何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか。理由を求めすぎるとがんじがらめになる。人はいずれ死ぬし、美しく死ぬために奮闘しているような気もする。

 どうしたらこんな自分でもよりよく生きられるのだろう。「自分にとってよりよく生きる」人生のテーマとしてはあまりに普遍的だが、何千年も考え続けられてきたテーマに等身大でぶつかることで何か糸口が掴めたら、と今日も考え続ける。
 岸見先生は、 「生きるための指針を明らかにしようとするのが哲学」とおっしゃった。私からしたら、死ぬための指針な気もするが、どちらにしても、今日も私は死ぬために生きている。

 もしも地球上に人類が私一人だけだとしたら、私の遺伝子は力強く生き延びようとするのだろうか。死ぬような思いや苦労をしてまで生き延びるくらいならさっさと死んだほうが楽って思いそうだ。

 まぁでもとりあえずはいつ死んでも後悔のないように、今に最善を尽くすことだけはしていこうと今思うのだ。
 私はどうなったら幸せなのだろう。それすら曖昧なまま今日も私は生き延びる。

 あぁ今無性に優さんのライブに行きたい。