絶頂は今

好奇心と探究心。

洗脳


 村田沙耶香さんの「地球星人」を読んだ。

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 図書館で予約してからおよそ3ヶ月。待ちに待ったこの本をようやく借りることができたので、また一気読みしてしまった。
 村田さんの小説を読むのはこれで8作目だったが、初めて読みながら涙した。
 一言で表現するとするならば、消滅世界とコンビニ人間のハイブリッドのような展開だったが、なによりも主人公が不憫で泣いてしまった。

 村田さんの小説には、よく洗脳という表現が出てくる。普通という名の偏見、性別や年齢によって裁かれる呪縛、欲望や面倒事を巧みに幻想で包みこみ素晴らしいものだと信じさせる刷り込み。
 これらは産まれてからこの世界で生きていくうえで自然と与えられる社会的な概念であるように私は感じている。村田さんの小説を読むと、それらから一歩引いた状態でその様子が客観的に見えてくる。

 私はこれまで、村田さんの小説を読んで何度も何度もそういった固定概念を壊されてきた。今回もそうだ。
 大人は自分たちに都合の良いように解釈して自分たちの概念を押し付ける。それが幼き主人公にとってどれほど苦痛で逃げ場のないことだっただろうか。主人公の無力さと、死ぬことよりも生きのびることの方がつらい彼女を思うと胸が締め付けられた。
 主人公が大人になってからもいっそ洗脳されたいと願っている姿がいたたまれなく、洗脳されている方が幸せなこともあるんだと思うと何が正解かわからなくなった。
 幸せとは、なんなのだろうか。全ての人が幸せになることなど、夢見ることさえ無意味な世界に私たちは暮らし、生きているのか。

 生きることの本質は、命を繋ぐためだけか。この世界で生き抜く術を身に付け、つがいと生殖し、子孫を残す。本当にそれだけだろうか。
 私は、誰かが困っていたら助けになりたいし、私が与えられるもので誰かを笑顔にすることができるなら、そのために生きていたいと思っているけれど、それは果たして正しいのか否か。極論、目の前に息絶えそうな人がいたとして、私の臓器が必要だと言われたら差し出すのが私の生き方だと思う。
 結局私は自分のために生きていないと捉えるか、自分の心に従って生きていると捉えるか。

 村田さんはどんな思いでこの小説を書いたのだろう。どうしたらこんなにも武骨で正直で第三の目線で世界に誠実な小説が書けるのだろう。
 私は、村田さんの小説を読むといつも自分の生き方を見直す。本当にこれでいいのか、世界の意思ではなく自分の意思で決められているのか、何度も考える。

 ある意味では、私はすっかり村田ワールドに洗脳されているのかもしれない。
 そしてそれが私にとってのかけがえのない救いなのだろう。