絶頂は今

好奇心と探究心。

他人事じゃなくなった話


 祖母が亡くなってから、早ひと月が経った。

 家事は女の仕事だ、とは言いたくないが、現状家には私しか女がおらず、自然と祖母が背負っていたものを私が引き継いだ。

 家事というのを、いよいよ本格的に担うことになったわけだが、自分の事だと思ってやってみると案外苦痛ではなくなった。
 今までは、"祖母に代わって家事を手伝っている"という意識がどこかであったのだろう。だからどこまでも他人事で、最終責任は祖母にあると思っていて、家事の責任と本気で向き合っていなかった気がする。あの頃はひたすら面倒で、なんで私が…という気持ちすらあった。

 買い物は祖母が頼んだものを買っていた。献立は祖母の提案か、私の唯一の得意料理だった麻婆豆腐か、すぐにできるインスタントで済ます程度。そのうえ、仕事や勉強が…と理由をつけて毎日はやらなかった。
 掃除や片付けは気が向いた時に、やりたいだけやっていた。ゴミ捨ては、毎回だるいなぁと思いながらやっていた。
 当時の私にとってはそれでも頑張った方だと思っていたけれど、私の毎日に家事全般が組み込まれるようになってからは"お手伝い"から"自分の日課"に変わって、あの頃は全然やれていなかったんだなぁと痛感した。

 家事には終わりがない。けれどもやらなければ安心できるはずの家が汚れるしゴミは溜まるしタスクも増え続ける。
 その結果は全て自分の責任であるという意識は、こまめに掃除して負担を分散して軽くすることに繋がったし、もはや自分以外誰も気にかけてくれない健康のために栄養バランスを意識した食材を買って献立を決めるようになった。

 それから、あな吉手帳風に日々のToDoリストをつくった。自分で決めたタスクを、達成したぶんだけ達成感が出るようにして、頑張ったら自分にご褒美なんか用意したり。
 世の、家事を担う全ての方を改めて尊敬するとともに、あぁ自分もその当事者になったんだなぁとしみじみ感じる。そして、より一層気を引き締めて頑張らないとなぁ…なんて思うのだ。

 直近の一番の趣味は手帳を凝ることなのだが、あな吉手帳の知識はそこから得た。料理も掃除も、調べればいくらでも自分にあった方法が見つかる。できない、苦手だと思っていたことも、工夫次第でいくらでもその意識を変えられることを学んだ。

 やり方さえ掴めれば、だいたいのことはそつなくこなせる自負はある。プラス、そこに自分の"好き"や"楽しい"があれば、続けられることもわかっている。
 まずはやり方を知って、自分流に落とし込んで、楽しみながら続ければそれがいつしか自分の能力として浸透する。
 なんだって、最初が肝心なのだという。始めてしまえば、動き出してしまえば、なるようになるものだ。物体にあるように、人の心や身体にも慣性の法則があるようだ。

 そして何より、知識が大事だと感じる。ひらめきや直感というものは、なにかしらの経験や知識から派生しているものだ。0から1を生み出す、というのは実際あまりない気がする。
 どこかで目にしたもの、どこかで耳にしたもの、どこかで触れたもの。そういうものが少しずつ少しずつ自分の中に蓄積し、それをもとに1を作り出すのだと思う。
 極論でいえば、真っ白で何もない無音の部屋で誰とも会わないような生活を生まれたときからしていたとして、何かを思い付いたりするだろうか?おそらくしない。
 世の中にあるたくさんの色や形、匂い、音、言葉、情報、様々な要素から人は1を生み出していると思う。
 つまり、いろんな物を見たり聞いたり触れたり情報を得たり、そうして蓄えることが知識に繋がり、それを自分や誰かのために活用することが大切なのだと思う。

 アイデアを真似することも、悪用しなければそれも才能だと思っているし、真似ているうちにオリジナルに変化することだってよくある話だ。
 とりわけ山羊座はこの「真似る」が得意な星座だと思う。誰かのアイデアや思想というのは、過去を生きた誰かが時間をかけて積み上げたものだ。その時間と労力を有り難く自分の力に変える。
 山羊座は時間を司ると言われている。限られた時間の中で目標に達するために、そして過去から紡ぐ時間を尊重することができることから、過去から学ぶということを重要視しているのだろう。

 そんな山羊座の話はまたの機会にして。改めて、人はいろいろな物事やたくさんの人たちに支えられて生きているのだなぁと実感する。
 そして、趣味を通して様々な感性や知識を蓄えていることを誇りに思う。
 今はまだ"できない"が多いけれど、少しでもオールラウンダーに近づけるように、日々鍛練と吸収を心がけたいと思う。

 他人事、というのはとても楽だが、重みがない。重みがないと、人は体感できない。体感がないと、理解できない。
 社会問題、政治や選挙、子育て、家事。過重労働や貧困だって、何事も当事者として体感しなければ想像はできても本当の意味で理解はできないだろう。
 「誰かに言われたからやる」とか「○○してあげている」とか、そういう意識がある時それらは他人事だ。
 他人軸ではなく自分軸で、どれだけ当事者として体感できているのだろうか。どの程度、人と共感できているのだろうか。どこまで自分の責任として行動できているのだろうか。そう自問し続ける姿勢がやはり大切なのだろう。

 今日作った大根の肉みそ炒め煮が我ながら上手くつくれてとても嬉しかった♡料理だって工夫してマスターしてやるぞー!

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