絶頂は今

好奇心と探究心。

依存と自立とアイナナと私

 2019年の下半期に突入した。あと半月ほどで1学期が終わり、こどもたちはもう夏休みだ。あまりにも早すぎる。

 こどもたちと日々関わるようになってから、人と人の関わり合いすなわち人間関係について考えることがますます増えた。
 偶然か必然か、一つのコミュニティで出会った個性豊かで多種多様なこどもたちと一人一人丁寧に関係を築く体験が私のなかでは今までにないもので、相性が良い人との関係だけでなく、相性があまり良くない人とどう関わっていくのか試行錯誤の日々だ。

 人間関係について考えると「依存」というキーワードが度々出てくる。当然のことながら、我々教育者の最終目的はこどもたちの自立であり、こどもたちを大人に依存させてはいけないし、ましてや自分がこどもたちに依存してはいけないのだが、この「依存」ってすごく難しい問題だと思う。

 誰にでも、心の拠り所はあると思う。または、自分が安心していられる居場所とでも言うべきか。
 例えば、生まれたばかりの赤子は自分の命を保護してくれる大人に頼るしかないし、それはこの世界で生きていくために必要なことである。こどもは養育者を全面的に頼る。そうして周りからの愛情を感じられないと発達に影響が出てしまうほどだ。

 私だって、家族や友人がいて、趣味がないと私が私らしく生きられないと思っている。趣味に関して言えば、もはや生活の一部としてアニメやゲームにそれなりの時間とお金を費やしている。
 今は鬼滅アニメとアイナナが特に熱い。我妻善逸とナギみつが私の心を掴んで離さない。アイナナ新章が毎回本当に哲学すぎて人生……としか言いようがないのだ。SUKI……アイナナはいいぞ。

 話が脱線したが、ここで改めて「依存」という言葉の意味を調べてみた。 他に頼って在ること、生きること。
 では「自立」はどうだろうか。 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。

 そこで疑問が浮かぶ。依存はそんなに悪いことなのだろうか?自立はそんなに良いことなのだろうか?
 善悪というのは白黒はっきりつけられるものではないし、どんなことも行き過ぎたものは推奨されるべきではないと私は思っている。行き過ぎた依存は自分の意思を持たなくなるし、行き過ぎた自立は独りよがりになる。結局世の中ほどほどが一番なのだろう。なぁ、大和さん。

 何度も同じ話をしてしまうが、私はアドラーの共同体感覚という考え方が好きだ。
 要は、人類はみな同じ共同体の一部であり(一人が共同体の中心というわけではない)、様々な人が互いを補いながら立ってるよね~みたいな考えだ。
 例えるなら、狩りで使う弓矢を作る人と、狩りで獲物を採ってくる人と、その獲物を食べられるように調理する人が、共同体の中で分担しながら生活を営んでいるイメージだろうか。
 それぞれに得意分野があり、出来ない所は出来る人にやってもらう。そうして社会は回っている。
 人間は一人ではとても弱く脆い。だが三人よれば文殊の知恵。うまいことなんとか生きていけるものだ。
 過去から紡いできた叡知を活かしながら、人ならではの工夫として共に協力し合いながら命を繋いでいる。

 Twitterで見た次の言葉がとても印象的だった。

── 「自立」とは、「何でもひとりでできる」ことではなく、「困ったときに、適切な人に、適切な方法で助けを求める」こと。

  子どもの自立とは、適切に依存できる場所を増やしていくことだが、子どもが外に居場所をつくっていくことを許さず、"親だけ"に依存させようとすると、子どもの自立は阻害される。 ───

 「依存」でいうならば、アイナナでもこのテーマが物語で描かれている。
 セトという名の一国の皇太子が、国の弱者や未来ある若者に支援をし、そのおかげで救われ成功をおさめた者たちから感謝されることで、その成功を自らの手柄とし自身の価値を高めようとするのだ。
 セトの行動はだんだんとエスカレートし、自分に対し感謝しない者への援助をあっさりと打ち切るようになり、また別の感謝してくれそうな者たちに支援をする。その繰り返しになるのだ。

 私はこの話を読んだ時にドキッとしたのだ。
 セトは、アイドルや芸能人を応援し尽くすことで自分の価値を高め欲求を満たそうとするファンや、子供を自分の支配下に置き援助するふりをして自分の理想を押し付ける大人の延長線上の人だと。実際そういう人は、ゴロゴロいる。

 セトは皇太子であり、支援活動などの功績により人望もあったため、一見裕福で社会的にも満たされている幸福な人のように見える。
 しかしセトのような人こそ、他人の人生に依存して自分の価値観を満たしている人だと思うのだ。
 物語でも、セトが常に満たされず自分を愛し満たしてくれない人々を卑しむシーンが多々出てくる。自分はこんなにも尽くしているのに、と。

 もしかしたらセトは幼い頃からありのままのセトであることを認めてもらえなかったのだろうか、と感じた。
 皇太子ということは、常に周囲から期待され、完璧でないことは認められず、失敗も許されなかった。そんな幼少時代を過ごしたのではないか。だから自分で何かを達成するよりも誰かの成功を自分の手柄にしようとしたのではないか、と。

 そうなると、その人のありのままを見てありのままを受け入れてありのままを尊重することがいかに重要であるかが窺える。
 千差万別、一人一人性格も特性も異なり、その人をとりまく環境も関わる人間関係も異なる。そうやって様々な要素から成り立つ目の前のその人を、色眼鏡なしで見つめることが大切なのだと思う。そしてそれがとっても難しい。

 スペインの哲学者オルテガは、このように言っている。
 「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。」
 
 私は、こどもたちに、困った時や苦しい時にその環境を変えるための手段と、環境を変える手助けをしてくれる人との繋がりと、そういう存在にうまく頼る姿勢を身に付けてほしいと思っているし、それこそがこどもの自立なのではないかと思う。
 そして、誰かが困っていたら手を差しのべられるようになってほしいと心から願っている。優しさは連鎖し、それはいずれめぐりめぐって自分自身を救ってくれるのだと信じている。

 誰のために、何を届けるか。どんな仕事でもどんな人間関係でも、真心と誠実さを大事にし丁寧にアプローチしていく。面倒くさくて複雑なことの中にこそ人の営みの本質があるのだと感じる。

 とはいえ無理なことは無理なので自分に出来る範囲で。私自身も周りに頼っていくし、家族、友人、多趣味、複数の拠り所を持つぞーーー!!!!!今週末はアイドリッシュセブンセカンドライブ!!!!!!!!!!!!しぬほど楽しみ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!趣味万歳!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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三月ちゃ~~~~~~~~~~ん😭💕💕💕
すっき…………………………