絶頂は今

好奇心と探究心。

あの日の懺悔と、今思うこと

 


※このブログ内でいう男性/女性というのは、当人の性自認のことではなく対外的にみて生まれ持った身体の性別で便宜上区別しています。悪しからず。
セクシュアリティは、性自認(自分はどのような性であるかという認識)と性的指向(どんな相手を好きになるか)と性表現(服装や髪型、言動などで表現する性)が複雑に絡み合っており、ひとりひとりがオリジナルのセクシュアリティを持っています。

 
参考動画


www.youtube.com



 伊咲ウタさんの「きみのせかいに恋はない」を読んだ。

 

 

 読めるのが電子のみというのが残念なほど、いろんな人に読んでもらいたい作品だと思った。

 物語は告白シーンから始まる。男友達に告白された主人公の花井チカは、周りが話す恋愛というものに共感できず、彼と付き合ってみたものの触れられて気持ち悪くなり拒絶してしまう。
 同姓の友達にも理解されず、自分は普通の恋愛ができないのだと思うようになったチカは、進学した大学で心理学部の教授と出会い、「アセクシュアルというセクシュアリティを知る。
 アセクシュアルというのは、性的欲求を抱かないセクシュアリティのことで、チカの場合は性嫌悪もあった。
 自分はアセクシュアルなのかもしれない、と悩みながらも自分自身のセクシュアリティを探求していくチカの姿に、自分を重ねながら読んだ。

 私は現在、FtX(生まれ持った身体の性が女性、自認する自身の性がXジェンダー)のパンセク/ノンセク(性嫌悪あり)を自認しているが、こういったセクシュアリティの知識がなかった頃は、自分はなんか普通じゃないんだなと漠然と感じていた。
 性的指向については過去のブログ(名前のない愛 - 絶頂は今)でも触れているが、私は自分自身の出生や生殖に対して嫌悪感があり(軽度のアンナタ、自分以外には適応しない)、自分が誰かと性的な肉体関係になっている状態が想像できない。スキンシップは親愛としての手を繋ぐやハグをする、まで。それ以上のことはしたいと思わない。
 性行為をお互いの同意の上で他者と他者がしているのは私と直接的に関係ないので性犯罪でなければ特に何も思わない(だから二次元は暴力的な表現でなければ見たり読んだりできる)、あくまでも私の肉体が他者から性的に触れられたりするのが無理という話だ。性的な目で見られることも性的に消費されることにも嫌悪感を感じるし、世の中の性被害や性犯罪に対して強い憤りを感じている。広まれ性的同意~!yona1242.hatenablog.com
 


 それでも、何年か前までは私もシスジェンダー(生まれたときに割り当てられた性別と自分が自認する性別が一致している人)でヘテロセクシュアル(自分の性自認からみて異性を好きになる性的指向)だと思い込んでいた。そうでない自分を想像もしていなかったし、考えられるほどの知識もなかった。

 私がそんなシス/ヘテロ思想の渦中にいた頃、同性の知人から「女性から好意を寄せられたらどうする?」と聞かれたことがある。
 当時の私は、たとえ親しい相手でも付き合うのは無理だと答えたらしい。らしい、というのは正直この時の会話を私が覚えておらず(最低)、数年後にその知人にこのことを聞いたからだ。この件についてはもう全方向に土下座をしたいほど、今でも後悔している失言だ。

 今の私の言葉で弁解させてもらえるなら、こう答える。
 当時の私は付き合う=性的な肉体関係を持つ関係性のこと、という印象が強く、なおかつ私の性嫌悪は親しい相手にほど強く感じるので付き合うことはできない。恋人になるよりも、友達としてプラトニックな関係性のまま仲良くしていたい。そんな気持ちだったと思う。
 女性を否定する意図はなかったけれど、結果的に拒絶するような言い方をしてしまっていたと後悔している。同じようなことを二度と繰り返さないためにも、このことを戒めとして重く受け止め自分自身を律したいと思う。

 そんな私が自分の性自認に違和感を感じるようになったきっかけは、とある女性アイドルにがち恋したことだった。
 それまでは男性芸能人ばかりを好きになっていた私が、雷に打たれたようにその人にゾッコンになってしまったのだ。あの時の気持ちは、誰になんと言われようと私にとっては恋だったのだ。彼女を好きになったことで、私の中には性別による恋愛対象の境界線はないのだと知った。(後のパンセク自認に繋がる)

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 これは2年前に私が初めて友人に自分の性について打ち明けた時の文章だ。字が汚いのは許してほしい。
 この時初めて自分はXジェンダーだと伝えたけれど、今は自分の性自認にぴったりはまる言葉がないから便宜上Xジェンダーとしている感覚で、どちらかというと性別で私という存在を決めつけてほしくなく、私は私という人間として認識してほしいという気持ちが強い。
 身体の性は女性で、手術を希望したり、トランス自認をするほどの違和感は私にはない。ファッションはレディースの方が好みだから選んでいるけれど、女性だから選んでいるというより趣味として女装を楽しんでいる感覚なので私に女性らしさを求められると単なる趣味なのにな…と思ってしまう。メイクも私が純粋に興味がなくやりたいと思わないので女性だからと押しつけられるとウッとなる。
 この時はまだ今と比べてセクシュアリティの知識も乏しく、男性らしさや女性らしさというジェンダーバイアスを無意識的に指標にしている。今も20数年間で根付いたジェンダー観から完全には抜け出せていないので、これからも精進していきたい所存だ。
 今は、どんな性別の人でも好きになる可能性はあると思ってパンセクと公表しているが、1mmでも性行為や生殖の可能性があると嫌悪感が出てしまうのでシス男性とは仮に好きになっても付き合ったり結婚したりするのは難しいと思っている。

 アラサーと呼ばれる年齢になり、同年代の人たちが結婚出産をしていくのを横目で見ながら、私はこのまま老いて一人で死んでいくのかもしれない、と思う時がある。
 セクシュアリティは変えようとして変えられるものではないし、私の複雑なセクシュアリティを理解して一生一緒にいてくれる人なんてそうそう現れない気がして、なかなか未来に希望を持てずにいる。セクシュアリティに限らず、自分の人生へのこだわりも強いうえに譲れない部分も人より多い自覚はある。

 それでも、こうして自分について発信していればいつか共感してくれる人と出会い、理想の人間関係を築けるかもしれない。そんな一縷の望みをかけて今年は私という人間をフルオープンにしようと決意した。
 東京レインボープライドに参加したり、SNSセクシュアルマイノリティであることをカミングアウトして似たようなセクシュアリティの方と繋がったり、こんな自分にもできることからやっていこうと、動き始めた。まだ動き出したばかりなのでこの先どうなるかはわからないけれど、それでも死ぬときに後悔はしたくないので、できることはやっておこうと今は思っている。
 
 年明けに15年連れ添った愛犬が亡くなり心にぽっかり穴が空いてしまい、今も寂しくて寂しくてどうしようもなくて泣いてしまう夜がある。そんな時、やっぱり私を理解して、私を尊重して、私を愛してくれるパートナーに側にいてほしいなと思うようになった。
 祖母が亡くなってつらかった私に寄り添ってくれた愛犬のように、ありのままの私を受け止めてくれる存在がいてほしいと強く思うようになった。私が求めているのは、何があっても関係性が変わらない家族なのだろうなとぼんやり思う。はぁ~~~早く同性婚が認められてほしい。どんな人も、結婚したい人と結婚しようと思った時にそれができる社会になってほしい。私にとって結婚とは、生涯変わらない関係性でいるという契約なので。
 
 セクシュアリティに限らず様々な理由から私と同じように「自分はなんか普通じゃない」「自分はみんなと違う」と悩んでいる人がいたらひとりじゃないよと伝えたいし、性のことや人間関係のことで苦しんでいる人がいたら味方になって力になりたいと思う。
 だからこそ私は性教育を広めたいし、自分の持つ知識や経験は惜しみなく必要としている人のために使って貢献したいと思っている。そういう仕事を生業にして生きていきたい。
 
 生まれた理由なんてあってもなくてもいいと思うが、生まれた理由がない私が生かされている理由はきっとそこにある気がするのだ。
 
 

愛着って本当なんなんだろうね


 3月に入って数日。私は今とても疲れている。
 今月20日には宇宙元旦とも呼ばれる春分が控えており、宇宙のエネルギーがそこから本格的に新たにスタートするタイミングだ。12星座で言うと一番目の星座である牡羊座の季節となり、より一層エネルギッシュに前へ進むようになる。
 それまでの魚座期間はこの一年間の総まとめ、目まぐるしく変化してきた感情たちの浄化、そんな期間かなと感じている。

 これは私の体感なのだが、2月は「(みんなといても楽しいけど)割と一人でも平気」だったのが3月は「一人だと全部を抱えるのがしんどい」みたいな感覚だ。
 ただでさえ全天体巡行でタスクが次々押し寄せてきているのに、自身の感情までも渋滞してきて正直私はお手上げだ。無理。しんどい。疲れた。

 私は人が好きだし、こんなんだけど本当は周りに頼りたいし、誰かにつらいよって甘えたい。でもそれが上手くできなくて苦しくなってまた夜中にメソメソ泣いてしまった。少し話は違うが泣くと精神的にも落ち着いて気分がスッキリする(※医学的根拠あり)ので大人も積極的に泣くべきだと思う。

 私が人に頼れない性分なのは、きっと愛着スタイルの影響もあるんだろうなと自覚している。
 私はおそらく恐れ・回避型を持っていて、そのためか昔から人間関係が下手くそだった。

 回避型というのは、特定の誰かと深く関わることを回避してしまうスタイルで、その背景には誰かと関わる過程で認めてもらえなかったことや相手から自分が求めた愛情を受け取れなかったことがあると思う。
 そして、不安型(恐れ)というのは相手の反応が気になって嫌われてしまうのではないかと不安になるスタイルで、その背景には相手を信じて踏み込んだ時に呆れられたり嫌われたり拒絶されたりした過去があると思う。
 恐れ・回避型はその両方の要素を持っており、人と繋がりたいのに怖くなって距離を置いてしまうのだそうだ。私は大好きな人に拒絶されるくらいならいっそ誰とも関わりたくないと思ってしまうし、10年一緒に過ごした友人にさえ未だに嫌われてしまうかもしれないという不安がある。人の気持ちが流動的で不安定だと知っているからこそ、何をもってずっと友達でいてもらえると確信をもって言えるのかわからず、時々どうしようもなく不安に襲われる。

 私は幼少期に親からのわかりやすい愛情を受け取れず、甘えたい時に甘えられずに育った。祖母に「人に迷惑をかけてはいけない」と教育された私は何かしてほしい時にも本音を我慢して"良い子"でいようとして、誰にも甘えられず一人で過ごすことが多かった。

 そんな時に私の支えだったのが空想の世界だった。数多の物語、フィクションの世界、夢がたくさんつまった非現実的な世界。そこに入り込むことで現実のつらさを忘れて、夢の世界に夢中になった。
 月星座が魚座ということもあって、小さい頃は何度も何度もディズニー映画を見ては、その中のキャラクターと一体化した。とりわけ大好きだったのがリトル・マーメイドで、人と人ならざるものの境界線を超えた愛に夢中だった。人間の世界ではない、海の世界にも憧れたし、今いる場所ではない世界に憧れた。アリエルになりきることで、自分ではない存在になろうとした。

 今、なんとなくそんな私のインナーチャイルドが幻想的な世界を求めている気がする。誰にも甘えられなかった幼少期の私にとって唯一の救いだった夢の世界。
 人は、幼少期の癖を繰り返すものだなと痛感する。その頃に救いだったものをずっと心の支えにしているし、その頃に失敗したことをずっと自分の足枷だと思いこんでしまう。
 とはいえ過去はどうあがいても取り返せないし、やり直すこともできないので、今できることを今やっていくしかないのが現実だ。

 2月には勇気を出して頑張れていたことも、プツンと糸が切れたようにやる気が起こらなくなってしまった。誰かと繋がることも、自分を表現した動画作りも、誰からも必要とされてない気がして虚しくなってしまった。
 決して誰かが悪いわけではなく、私が勝手にそう感じてしまって、動けなくなっただけの話だ。このブログを書いているのは、これを読んでくれているあなたにそこを誤解してほしくないからだ。
 まぁ、こんな個人的なブログ、誰が読んでくれているのかもよくわからないけれど、一人でも読んでくれているのなら、書いた甲斐があるというものだ。

 結局今の私にできることはまた夢の世界に逃げ込むことだけだが、逃げることは恥だが役に立つとガッキーも言っているので(※言ってない)、おとなしく二次元にどっぷり浸かろうと思います。

 いつか私にも、この人は私をずっと好きでいてくれる、と確信を持って言える人が現れるのだろうか。どうしたら相手を心から信じて甘えられるようになれるのだろうか。
 泣いている私のインナーチャイルドを救ってくれる人はこの世にいないのかもしれないし、それは結局自分自身で癒やしていくしかないのかもしれない。はぁ、世知辛い。

 自分のインナーチャイルドさえ癒せないような人間が、本当に子どもたちと関わっていていいのだろうか。
 常に不安が付きまとう私の居場所はいったいどこにあるのだろう。

母親に育児放棄されたけど、一生懸命生きてます!(仮)

 
Yes, way down deep inside I've got a dream!

そう、私の心のずっと深い部分には夢があるんだ!

── 「塔の上のラプンツェル」劇中歌「 I've Got a Dream」より
 


 今月18日には太陽が魚座に、25日には金星も魚座に入り、バリバリの水瓶座モードからは少し抜けたように感じる。
 そんな中、私も魚座的な愛や夢、芸術の美しさで心を満たしたい気持ちが強まってきた。なんてったって私は月星座が魚座なのでね。魚座の感性が一番落ち着くのです。

 本題に入る前に、 これまでアニメ作品をそれなりに多数見てきた私が、魚座期間におすすめのアニメ3選を勝手に紹介するぜ!!!アマプラ、ネトフリ民は是非この機会に〜!!!

⛸「ユーリ!!! on ICE」全12話 ネトフリ アマプラ
言わずもがな。(ひとつ前の記事を参照→名前のない愛 - 絶頂は今)
愛の物語。幸せな気持ちにしかならない。スケートの描写が美しい。曲がどれも良すぎる。

 ✉「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」全13話 ネトフリ
人の感情が理解できない主人公が、手紙の代筆を通して"愛してる"を知っていく物語。京都アニメーション制作なので画がとても美しい。私のお気に入りは6話と10話。

 ♫「この音とまれ!」第1クール13話 第2クール13話 ネトフリ
箏曲部(楽器の琴を演奏する部活)の物語。高校生たちの青春。お琴ってこんなに魅力的で音色が美しいんだ!と知れたアニメ。曲と物語がリンクしていてとても良い。天泣は鳥肌もの。とりあえず先ずは5話まで見てくれ〜(泣)


神奈川県予選大会 「天泣」 (演奏:時瀬高等学校箏曲部)


 近頃の私はこれらの作品を見返しては深夜にホロホロと泣いている。感情が洗われて心がスッキリするのだ。
 22日から全天体が巡行になり、私はというとやりたいこともやらなくてはいけないこともいっぱい山積みで、仕事に行けば自分のキャパ以上の業務に追われ、お家に帰れば自分のやりたいことのイメージが止まらない。全部をこなしたいし成し遂げたいが身体がなかなか追い付かず、睡眠時間を削っているので寝不足が続いている。
 それでも心を満たすことを優先するのは、自分の精神衛生のためだ。前回の全天体巡行期間では心まで忙殺されて疲弊してしまったので、今回は積極的に自分を癒す行動を取っている。最近のお気に入りはカモミールティーとキットカットのカフェラテ味だ。

 本題に入るが、私にはいくつかの夢がある。その内のひとつに、「本を製作したい」という夢がある。小説でも絵本でもエッセイでもブログのコピー本でもその形式はなんでもいいのだが、何か本を出したいと思っている。そしてひとつは自伝となるようなものが書きたい。
 私は昔からずっと自分が生きた証をこの世に残したい、と思ってきた。それは、私の人生を形にして精一杯生きたことを肯定して死にたいからだ。

 もう何度もブログでも書いているので過去の記事を読んでくださった方には十分伝わっているとは思うが、私は自分の出生に対して肯定的に思っていない。
 私が産まれたことそれ自体は本来無くてもよかったことだし、きちんと適切な避妊をしていたり、お互いが子育てに向き合える状況で本人たちが産み育てたいという明確な意思決定があれば、私は存在しなかったはずだ。

 妊娠を望まないのであれば最低限避妊に取り組むこと、避妊をするのに(今の日本では)それなりにお金がかかること、避妊していても性行為によって妊娠する可能性は0ではないこと、中絶するためには身体的にも経済的にも大きな負担を伴うこと。そういう大事なことを一緒に理解したうえでパートナーシップを相手と考える必要があるし、それができないパートナーはパートナーと呼べないと思っている。
 対等な立場で話し合い、お互いに性行為のその先のことを考え、二人にとってベストな関係性を自分たちの意思で決めていく。私の出生を肯定することはそれらのパートナーシップを否定することと同じこと。私が理想とするパートナーシップの在り方を否定することとイコールなのだ。
 けれどこうして産まれてしまったからには、私の人生を無駄にしたくない。産まれたことを否定することと、生きることを肯定することは、一見矛盾しているように思えるが、それらは全く別々の考え方で、どちらも同時に成立するものだと思う。
 だから私は誰よりも私が生きることを肯定し、一生懸命生きて、死ぬ前にその生きた証を残したい。そしてそれが少しでも誰かのヒントになったり、希望になったり、新たな発見になるなら、それが一番冥利に尽きるのだ。

 これまでの人生、 親からの影響も育った環境からの影響も、そりゃあ多すぎるくらい受けているけれど、それが全てではないよって私と似たような境遇の人たちに伝えたい。
 世界はどこまでも広くて、世界について知れば知るほど自分が今おかれている環境が世界のほんの一部なんだと気付けるし、親や環境や社会からの影響だけじゃない、いろんな考えの人たちや様々な学問、文化からの刺激、影響っていうのも自分自身を作ってくれるんだよって伝えたい。
 この世界のことをたくさん知ってほしいし、あなたのことを心から大切に想っている人が必ずいることも知ってほしい。少なくとも私は、すべての子どもたちを愛しているし、無条件で守りたい、大切にしたいと思っている。だから何か自分にできることで子どもたちに貢献したい、支援したいと思って今の仕事に携わっているし、血の繋がりだとか年月をかけた人間関係だけが素晴らしいものではないと知っているからこそ、人間関係においてはその都度相手との関係性を丁寧に捉えたいと思っている。

 それから、自伝を通して「母親神話」みたいな根強い幻想も打ち砕きたいという気持ちがある。
 私は母親の顔を知らずに育ったけれど、今こうして一応人並みに生活して前向きに生きている。自分を産んだ実の母親がいなくたって生きてこられた私からすると、母親なら当然○○とか母親にしかできない○○みたいなものは無いんじゃないかと思うのだ。あと女性なら自然と母親になれる、みたいな「母性神話」も壊したい。どんなセクシュアリティの人だって子育てに誠実に向き合ってきちんと学べば子どもは育てられるし、母親と父親がいる家族の形が必ずしも正解ではない。そもそも今の日本は母親とか家族とかいう概念が理想化されすぎていて窮屈に思う。

 乳幼児期には信頼できる大人への愛着を形成すことが大事だ、というのは子どもについて学べばすぐにでも知れるだろう。私は自分の育った環境によって愛着の形成が(たぶん)できなかったし、(たぶん)それゆえに人間関係に対して警戒心を持つようになった。
 けれどそれはそれで一つの個性なのかなと自分では思っている。警戒心のおかげで人間関係のトラブルは最小限になったし、性被害に合うこともなかった。結局何が言いたいかと言うと、それが全てではない、ということだ。
  海外の調査では、母親が主たる養育者であっても赤ちゃんの約4割に健全な愛着形成が確認できないことが分かっている、という報告もあるし、この国では健全な愛着を形成して育った人の方がむしろレアなのでは…?とすら思う。家庭環境に全く問題がなく、両親からたっぷり愛情を受けて何不自由なく育ちました!と胸を張って言える大人が今どれだけいるだろうか?
 子育ては本当に難しいし正解もないし、だからこそその子との関係性をしっかり見つめていく必要があるのだなと常々痛感します。
 はぁ〜〜〜〜難しい!こんな難しいことを常日頃向き合っている保護者の皆さん保育者の皆さん本当に本当に尊敬します…………微力ながら私も社会の一員として包括的に子育てに参加していきたいと思っております。

 後半結局真面目な話になってしまったが、一番言いたかったのは夢を持つことは素敵なことだということです。
 私は「誰にでも夢はある!」と歌うあの歌が大好きだし、どんな人も夢を持って生きてほしいし、もっと言えば夢が持てる社会になってほしいと願っている。

 占いをしていてよく感じるのは、イメージは必ず現実化するものだということ。引き寄せの法則、なんて言葉も聞かれるが、あながち間違いではないと思っている。ポジティブなイメージをしているとポジティブな現実が表れるし、ネガティブなイメージをしているとネガティブな現実が表れるものだ。それは深層心理が無意識に自分自身をコントロールしているからだと私は思うし、逆に言えばそれを知って利用すれば今日この日から幸せになれる、とも思う。でもそのためのポジティブな要素が今の社会に少ないと感じる。夢を見る時間も余裕もなく、毎日生活していくだけで精一杯な人が多いように思う。

 目の前の事柄に善悪や損得といった価値観を付与するのは、過去の自分でも未来の自分でもなく今の自分だ。これはアドラー心理学の目的論だが、自分の目的のためにそれをポジティブに捉えたり、逆にネガティブに捉えたりしているのだと。
 私はこの考え方をするようになってからは、今の自分の意思で意思決定をし続けている。だから私の出生を否定することは今の私の意思であり、未来の私がどうするかは未来の私が決めることだ。
 未来がどうなるかはわからないけれど、私は私の理想を追い求めてこれからも生きていきたいと改めて決意したのだった。

 私が出す本の題名のつもりでこの記事のタイトルを決めたがあまりにもネーミングセンスが無さすぎてラノベみたいになっているので、何か良い案がありましたら助言して頂けると嬉しいです各位…!

名前のない愛


 私は今、ユーリ!!! on ICEを見ながらこのブログを書いている。

 昨年末に急激にハマり、その時にも本当は感想ブログを書こうと思ってはいたのだが、自分の中でうまく言葉がまとまらず、年末年始の慌ただしさでタイミングを見失い今に至る。

 ユーリ!!! on ICEという作品は、一言でいうならば「愛」の物語だ。ここに登場するキャラクターたちは自分の愛について向き合い、それぞれの愛を表現していく。

planet-goldfish.hatenablog.com

 この方のブログに、とても共感した。

 私が愛してやまないBANANA FISHアイドリッシュセブン(通称アイナナ)でもそうなのだが、私は性別や社会の固定概念に基づく恋愛や性愛、それに近いものを超越した、人間同士の深い繋がりのなかに存在する愛にとてつもなく惹かれる。

 ユーリ!!! on ICEの中で特に印象的なのは主人公である勇利のスケーティングだろう。
 第一話で彼は大舞台で結果を残せず地元に帰省、今後の進退について考え始め、いわば人生の岐路に立っていたところへ彼がずっと憧れていたヴィクトルがやってきて、コーチになると言い出し物語が展開していく。そして勇利は愛をテーマにしたプログラムで、自身のスケート人生をかけたシーズンに臨んでいく。

 勇利はずっと自分に自信が持てず、スケートもスケート人生も自分一人で抱え込み背負っていた。しかしヴィクトルと出会い、共にスケートや愛について向き合っていく中で家族、地元、リンクメイト、ライバル、選手仲間、そしてかけがえのない存在であるヴィクトルといった周りの愛によって自分がいることに気付き、それらを受け入れ自分自身の愛を見つけていく。

 私は勇利とヴィクトルの関係性にとても惹かれるし、BANANA FISHのアッシュと英二、アイナナのナギと三月の関係性もたまらなく好きだ。そこに所謂社会通念的な恋愛感情や性的な触れ合いがなくとも、確かにそこにはその二人の関係性だけの愛が存在しており、私はそこに強く惹かれるのだ。
 これらは俗にいうBLと呼ばれているものなのだろうが、私はBLについて考える時自分のセクシュアリティについて考える。私が好きなBLには、私のセクシュアリティと自分自身のリアルな恋愛観が強く影響している気がするからだ。(少女漫画や男女カップルに対する私の気持ちはまた別物なので今回は割愛させてもらう)

 先程も言ったが、私は愛し合っている二人にわかりやすい恋愛感情や性的な触れ合いを求めていない。なぜなら私にとって愛とは、一時の感情や快楽に繋がる触れ合いに存在するものではなく、ただそこに在るものだからだ。愛は、想いや関係性の数だけ存在するし、この世界には様々な愛が遍在していると思っている。

 私は現在、パンセクシュアルとノンセクシュアルを自認している。
 セクシュアリティは人によって解釈や感じ方が微妙に異なるので定義するのが難しいのだが、私にとってのパンセクシュアルは「性別で好きになる相手を限定しない(好きになる相手の性別を問わない)」、そして私にとってのノンセクシュアルは「他者に性的魅力は感じるが性的欲求を抱かない」である。
 簡単に言うと、「好きになった人が私の好きな人、相手の性別にかかわらず好きな人にかっこいい!やかわいい!等の感情を抱くがセックスはしたいとは思わない」が現時点での私のファイナルアンサーかなと思っている。

 両親が所謂でき婚で、その後母親が育児放棄して離婚、シングル家庭で育った私は自分の出生に対してポジティブな印象を持っておらず、生殖に結び付く性行為はしたくないと思っている。正直26年間性行為を必要としてこなかったのでその必要性もわからない。むしろ予期せぬ妊娠をしてしまうリスクとそうなった場合の心身や経済的な負担を考えると私の生活においてはデメリットであるとすら思う。
 愛の伝え方は性行為が全てではないと思っているし、性的な触れ合いよりももっと深く、心の奥底から、肉体を超越した魂の繋がり、そういう愛に私は魅力を感じ、求めている。


 そばにいるだけが愛ではない、離れていても魂の繋がりやそれに準ずる繋がりがあればそこには二人の関係性の愛があると思う。
 ロシア大会FPでヴィクトルがいない中でヴィクトルとの愛を信じて証明するために滑りきった勇利、日本へ帰る際に僕の魂はいつも君と共にあるとアッシュに伝えた英二、ナギが姿を消してもナギのグループや仲間への愛を信じて探し続けた三月。
 彼らが見せてくれる愛の形に私は感動して愛おしく思うし、私の理想の愛だなと感じる。
 BLではないが、はいからさんが通るの紅緒と少尉も離ればなれになっていても互いを想い合い互いのために生き続け、死ぬときは一緒だ、と誓う二人の愛が大好きで、はいからさんは私の恋愛観に多大な影響を与えているな……と感じる。

 ユーリ!!! on ICEの中で私が特に好きな台詞がある。

第4話 海辺での勇利とヴィクトルの会話

「勇利は、俺にどの立場でいてほしい?父親的な?」
「いやぁ…」
「兄?友達?」
「う〜ん…」
「じゃあ、恋人か?」
「ないないないないない!!!ヴィクトルは、ヴィクトルでいてほしい! 僕はずっと憧れてたんだ。僕の嫌なところ見せたくなくてあんな…無視したりして… 全部、スケートで返すから」
「オーケー、手加減はしないよ。それが俺の愛だからね」

第5話 記者会見での勇利の言葉

「僕の愛、それはわかりやすい愛や恋ではなくて、ヴィクトルとの絆や、家族や地元に対する微妙な気持ち、ようやく自分の周りにある愛のようなものに気付くことができました。初めて自分から繋ぎ止めたいと思った人、それがヴィクトルです。その感情に名前はないけれど、あえて愛と呼ぶことにしました。」


 私がこの作品を好きな理由は、きっとここにあるなと感じる。私が友人に対して抱いている愛も、これに近いものだ、と実感するからだ。
 ただ、その人はその人であってほしい。私との関係性にあえて名前をつけたくなく、かといってこの気持ちは友情だけで片付けられるものでもなく、ただ、このままずっと続いていって死ぬときに最後まで想っていたいなと思うのだ。

 家族や友人に対する愛も、趣味や文化に対する愛も、推しに対する愛も、宇宙や自然に対する愛も、いろんな愛が私の中には常に存在しており、愛することは私にとってとても身近で、たぶん無意識にでもできることなんだろうなと思う。
 そのぶん、愛されることが未だに苦手なので、今世の課題かなと感じている。私のドラゴンヘッド蠍座なのは、そういうところかなと。

 ユーリ!!! on ICEを見返しながら、私が人生のパートナーに望むのはやっぱり勇利とヴィクトル、アッシュと英二、ナギと三月のような名前のない愛なのだな、と再確認したのだった。



(追記)

それはそうと氷上で滑っている時の勇利の顔めちゃくちゃめちゃくちゃかっこよくないですか!?!?!?!?普段のぽやぽやふくふく顔とのギャップ……ッ……クッ……………SUKI………………私がユーリ世界線のスケオタだったら勝生勇利の追っかけをしてカツ丼のぬいぐるみを手作りして勇利の演技が終わったあとリンクに投げ込みたかった……………

2021年の私の生き方

 新しい年が始まり、いよいよ水瓶座イヤーに突入した。
 昨年から半年近く牡羊座に滞在していた火星がようやく7日に牡牛座へ移行し、8日には水星が水瓶座へ、20日には太陽も水瓶座へ入り、29日には獅子座で満月…不動宮の追い風かな?と思ったり。ここ数ヶ月間はどっしり構えて落ち着いて物事に向き合うと良いのかもしれないな〜〜〜と感じている私です。

 こうして、日々の生活に占いを用いるようになったきっかけはおよそ4年前。初めはしいたけ占いにハマり、よくわからないけど当たってる…!という感覚から、その後自分の太陽星座である山羊座の性質がもっと知りたくなって本格的に占星術を学ぶようになり、気がついたらどんどん占いにハマっていった。

 ブログやSNSで占いについてや自分の考え方を綴ったりつぶやいたりしていく中で、占いに限らず自分が伝えたいと思ったことを発信していくことが私にとってどんな意義があるのかを考えることが近頃増えた。

 あえて言葉にして表現していくということは、心の内で思うだけとはわけが違う。そこにはその言葉によって誰かが傷付く可能性や、自分の意図とは異なる意味で解釈されるリスクもある。
 それでも表現していくということは、やはり覚悟と責任が伴うことだと思っている。そしてその分だけ、届いてほしい人に届いてほしいように届いた時の感動はひとしおだ。
 特に占いのように"目に見えないもの"についてはまだまだ理解されず難色を示されることもあるし、私の言葉はどこか説教臭いところがあるので誰かに不快な思いをさせてしまっているかもしれない。とりわけ、昨年は届いてほしいという気持ちよりも、吐き出したいという気持ちの方が強かったのも事実で、尚更その毒性で誰かの気分を悪くしてしまっていたかもしれない。

 それでも今年は、伝えたいと思ったことは積極的に伝えていきたいな、と強く思っている。そしてそこでは誰に伝えたいのか、どう伝えるか、何をどうして伝えたいのかを自分の中でしっかり考えていきたいなと思う。
 これからもますます情報が人々の生活になくてはならないものになっていくはずだし、溢れかえる情報の中から自分で精査して必要なものを選び取っていかなくてはいけなくなるだろう。これだけ見ていれば、聞いていれば、絶対安心!といえるものなんて無くなるし、メディアの在り方が問われ、その形も変わっていくかもしれない。
 そうなったとき、私の発信が、誰かが必要としている情報をほんの1㎜でも伝えられたり、その人が求めていた情報を知るきっかけになってくれたら嬉しいなと思うのだ。
 占いのこと、哲学や心理学、性教育を通して思う私の考え方、価値観、人生観。そういうところから、誰かの何かのヒントになったり、新しい発見になってくれたらとても幸せなことだなと思うのだ。

 以前、友人と私の警戒心について話したことがある。私はとにかく他者や、もっと言うとこの社会、この世界に対して警戒心が強い。自分が傷付けられないように、めちゃくちゃ武装しながらめちゃくちゃ警戒して生きている。一歩安全地帯から外に出ればそこはサバイバルだと思っているし、いつどこで何が起こるかわからないから常にその先の対策を考えているし、自分の武器を増やす努力をしている。
 仕事面でも、自分にとって防げたはずのミスがないように、また不測の事態が起きても対応できるように出来る限りのリスク管理や確認作業を何度も何度もしている。おかげで職場内では居てくれると安心と言われることが増えた気がする。
 友人とそんな話をしていて、私が自分のために自身の不安やリスクの芽を摘んでいくとき、周りの人たちのそれらも一緒に摘んでいるんだと思えた。私の過剰な警戒心も、どこかで誰かの役に立っているのかもしれないと思えたとき、すごく嬉しかったのだ。

 私の発信に、私の言葉に、嫌悪感を抱いたりウザいなと思う人が今後も出てくるだろう。そうなったらなったで、それでも誰か一人にでも届くのであれば、やっぱり伝えていくことはしていきたいなと思う。
 もちろん、出来るだけそうならないように配慮は徹底していきたいが、人間は完璧にはなれないので、反省はしても自分を責めることはやめようと思う。

 私と合わない人とは、拒絶するのではなくとりあえず距離を取ればいいかなぁと今年は思う。あぁ、ダメだったとすぐに結論を出すのではなく、私が踏み込みすぎたのかもしれない、と一歩下がって様子を見る癖をつけたい。精神的なソーシャルディスタンスをこの水瓶座期に身につけたいところ。

 私の今年の目標は、自分の特性を活かしつつ自分なりの風の生き方を体現していくこと。
 具体的には、伝えたいことを言葉にして伝えていくこと、自分が好きだと思えることや楽しいと思えることを限界を決めずにエンジョイすること、キャッシュレスやオンラインの波に乗ること、配信されるライブやそのチャットに積極的に参加すること、自分のことは自分の意思で選択し決めていくこと。そして、それらを体感して感じたことを表現していく=体現していくこと。

 私が楽しそうに生きることで、少しでも誰かにポジティブな影響を与えられたらとても嬉しいし、何か偉大なことを成し遂げることよりも私にとってはその方が嬉しい気がする。

 今年も、オタクライフは楽しく続けていきたいし、好きなものは好き!と公言していく。
 こんな私ですが、皆様今年も何卒よろしくお願い致します!

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 この男……2月14日生まれ水瓶座………
 大谷羽鳥本編に怯えて生きる2021…………

山羊座木星期を振り返る

 

 

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 12月17日、土星水瓶座入り。

 12月19日、木星水瓶座入り。

 12月22日、土星木星水瓶座で合。

 

 年末恒例の振り返りブログ。2年前からここで日々感じることをブログに書くようになり、木星期を振り返るのも3年目となった。

 過去の記事はこちら

 

 改めて読み返すと文章の書き方や表現がこの数年で変化していて、少しは成長していたらいいなぁと思う私である。

 本当は木星水瓶座に入るタイミングでブログを上げたかったのだけれど、気分が乗らずようやっと重い腰をあげた次第です。

 

 山羊座と共に歩んだ3年間

 

 木星山羊座期を振り返る前に、まずは土星山羊座期について話したい。占星術において土星が象徴するものは「コンプレックス」「課題」「使命」「社会的テーマ」。そして、山羊座は「大切なものを守る力」「歴史や伝統などの年月や時間をかけたもの」「社会に対して責任を果たしていくこと」を大事にしている星座だ。これらは教科書的な意味というよりも、私自身が土星をバックに持つ山羊座として生きてきた体感に基づく感覚だ。

 2017年12月に土星山羊座に入ってから約3年間、私はまず自分自身を深く掘り下げ私という人間はどんな人物なのかを徹底的に分析し、その上で自分がこれから先どう生きていきたいのか、誰のためにどんな方法で目標に向かっていくのかを考え、そして長年抱えていた苦手意識やコンプレックスにも向き合い、自分を認める努力をしてきた。

 占星術や心理学、哲学などを活用しながら自己研鑽をし、たくさん悩みながらも少しずつ歩んできて、3年前の私では考えられない”今”を生きている。3年前の私は、3年後の自分がこんなに占いに詳しくなっているとは思っていなかったし、まさか学童で働いているなんて夢にも思っていなかったし、自分のことを無条件で好きになれるなんて今世では不可能だと思っていた。

 

 私にとってこの3年間はとにかく自分と向き合い、自分の長所も短所も受け入れて前に進んできた貴重な時間だった。きっとこの先の人生で過去を振り返った時、この時期は自分が一皮むけるターニングポイントだったと感じるのだろうなと思う。

 趣味で言えばアイナナをちょうど3年前に始めており、あぁ…なるほど……となったし(アイナナは人生とは、人間とは何かを考えさせられる作品ですよ、アイドル育成?とんでもない……あれは哲学です……アイナナはいいぞ………)、思えば村田沙耶香にハマったのもキノの旅にハマったのも哲学や性教育に関心を持ったのも改めて本が好きになって読書が趣味ですと言えるようになったのもここ数年……まさしく人生観、価値観が大きく変わった3年間だったと言える。

 

山羊座集中期間のラストスパート

 

 さて、ここからはこの1年を振り返っていきたいと思う。

 山羊座木星期の私のテーマ、一番は「自分を好きになること」だと思う。過去の記事でも、再三私は自己肯定感が低い人間だと言ってきたが、今年はそんな自分をさらけ出し認めることで長年背負ってきたコンプレックスをやっと手放すことができた気がする。

 私は人に弱みを見せることがこれまであまりできなかった。なぜなら完璧な人間でなければ嫌われてしまうかもしれないという不安があったからで、それゆえずっと人に嫌われない人間でいようと必死だった。誰かにとって有益な存在であろうと努力もしてきたし、自分の未熟さのせいで他人に迷惑をかけてしまうことが何よりも恐怖だった。

 誰かに好きだよと言われても、それは本当の私ではなく相手にとって都合がいい私が好きなのであって、本性を出したらすぐに離れていってしまうかもしれない。そうなることを恐れる私は相手にとって”良い人”でいることで安心し、同時に苦しくなっていた。

 

 

 これらを書いていた時はまさにありのままの自分を受け入れてほしい気持ちと、そんなことしたら嫌われてしまう恐怖の狭間でもがいていたし、完璧な人間って何だろう、とか考えてはその地点に到達できない自分の人生や自分自身にも失望していた。

 今年の初めにアルテイシアさんのエッセイを読んで、これまで人にあまり出してこなかった負の感情やコンプレックスを表に出していく勇気をもらった気がする。それからは、どんな自分でも私は私で、それを認めるのは他人ではなく自分なのだと思えるようになり、人からどう思われるかよりも、自分がどう思うかを大切にするようになった。土星水瓶座に前乗りしたタイミング(4~6月)で自分が楽しく過ごせるのが一番だ!と実感でき、そこから自分を好きになるための行動をするようになった。

 自分を好きになるために5月から筋トレを含めたダイエットを始めた。でも私が目指しているのは他人に評価されるための身体作りではなく、自分が一番自分自身を愛せる身体作りである。一般的な指標ではなく、自分指標で健康を目指してダイエットを続けている。

 



 誰かの理想に振り回される人生にそろそろ終止符を打ちたい。今でもまだ幼い頃に根付いた親や周りの環境からの”こうあるべき”や社会の固定概念、ルッキズムから抜け出せていない私もいるけれど、私は私が好きだと思える私になるために、これからも自分が一番心地いい私でいるための努力をしていきたいと思う。

 とにもかくにも、本当にお疲れ様と自分をいたわってあげたい。年末年始は食べ過ぎに注意しつつも大好きなものを食べながらゲームに読書に手帳…趣味を満喫したいと思う。身体の健康も大切だけど心の健康も大切。人生は楽しく過ごしてなんぼですよ。

 

 プレ水瓶座期とこれからの水瓶座期の予感

 

  2008年1月から冥王星山羊座に、2017年12月からは土星山羊座に、そして2019年11月から木星山羊座に。今年は山羊座に天体が集中しており、いろんなことが根底から覆されたり是正されたり、なあなあになっていたことにメスが入る一年だったなと思う。

  しかしながら山羊座ムード一色かと思いきや、実は3月末から7月頭までは一足先に土星水瓶座に入っていた。そこから逆行を経て再度山羊座に戻り、この12月に改めて水瓶座に入ったのだ。

  おおよそ4~6月頃、何が起こっていたかというと緊急事態宣言が出されソーシャルディスタンスが叫ばれ、リモートでコミュニケーションを取るようになった人が多くなったと思う。このソーシャルディスタンス、個人的にすごく水瓶座っぽいなぁ~と感じており、物理的な距離はもはや重要ではなくなり、お互いを尊重しながら自分のスタイルを確立していくのが風星座であり不動宮の水瓶座らしいなと思うのだ。

 土星木星水瓶座に入る2021年も同じような流れがくるのではないかと思う。「通信」は水瓶座の象意でもあるし、ネット回線やリモート環境が本格的に整っていくんじゃないかなと期待している。ただし、来年は5月から7月に木星が先に魚座に入るのでその期間はみんなで会ったり感情や体験を直接共有できるんじゃないかと思っている。私はもしこの時期に外出ができるようになっていたらディズニーに行きたいな~とぼんやり考えている。

 オリンピックはどうなんでしょう、まぁ今のままでは無理があると思うので本気で実現したいのなら諸問題は解決していかないといけないと思いますけどね。でも木星魚座に入ったらボランティアで参加する人が増えそうな予感も。善意につけ込まれないように個人的には気をつけたい所存。魚座の楽しさを体感するならやっぱり音楽や芸術に触れると気持ち良い気がしますね。くれぐれもドラッグや依存性には気をつけて。

 

 2023年3月に土星魚座に入るまでの土星水瓶座期のテーマは、やっぱり「テクノロジーの発展」「多様性に伴う人々の意識改革」、そしてそれらを社会的に落とし込むための具体的な法整備かなと思う。これを機に同性婚や選択的夫婦別姓も進んでいってほしい。全ての人が、自分の意思で自分の人生を選択できる時代に期待。

 世間では風の時代だと騒がれているが、まぁそういうことですよ。物質や資産、業績に縛られる時代から、人脈やコミュニケーション能力、その人自身のありのままの魅力が重要視される時代に。といっても以前からその流れはうっすら来ていたので、急激に何かが変わるというよりも”最近の勢い”だと思っていたものがこれからは本格的に人々の生活ベースになっていくようなイメージ。

 例えば、これまでは「お金がないこと」や「成績が伸びないこと」が人々の悩みになりがちだったのが、今度は「友達が少ないこと」や「対人コミュニケーションが苦手なこと」が多くの人の悩みになっていくような。これまでは成績さえ残せば生き残れたがこれからはそうもいかない。友達が少ない狭く深く派の人たちはしんどくなりそう。逆に広く浅く派の皆さんは生きやすいと思いますよ。

 地星座(牡牛座・乙女座・山羊座)さんは軽くてラフな関係が得意ではないので自分の信条とのギャップがしんどいかもしれないですね。そういう時は周りにいる風星座(双子座・天秤座・水瓶座)さんの口調や生活をマネするといいと思います。私は天秤座の友人のマネをしようと目論んでいます。

 もし、相手に対してイライラしてしまったりムカつくようなことがあったら、それは自分が本当はそうしたいのに我慢していることだったり理性で抑えていることだったりするそう。風の軽さに納得できない時は、あぁ本当は自分もこんな風に気楽に生きてみたいんだなと思うと少しは楽なんじゃないかと思います。と、軽さとは程遠い責任感の塊である山羊座の私は自分に言い聞かせていますよ。お試しあれ。

 

 最後にオタク趣味の話をさせてほしい

 

 もはや私のアイデンティティともいえるオタクライフ。今年私が狂喜乱舞したものたちを紹介させてほしい……全てのオタクがそうとは思わないが、私は自分の推しを世界中に言いふらしたいタイプだ。

 


内田雄馬「Image」MUSIC VIDEO

 

 見てーーーーーーー!!!!!!!!私の推しです!!!!!!!!!!はぁ……あまりにも好き………曲調も歌声もダンスも全部ドストライクすぎてたぶん今年一番聴いたきがする。最高………好き……

 


内田雄馬「SHAKE!SHAKE!SHAKE!」MUSIC VIDEO

 

 さっきのと同じ人の曲だとは思えないほどの振り幅!!!!!かわいい~~~~好き……そして歌が上手い。内田雄馬 7th single「SHAKE!SHAKE!SHAKE!」1月27日発売です何卒よろしくお願い致します!!!!!

 

 今年はアルテイシアさんにハマったり、初めて推しカプの同人誌を購入したり、Edenにハマったり、あつ森にハマったり、BANANA FISHに人生狂わされたり、シオリーヌさんの本をクラファンしたり、急激にユーリ!!! on ICEにハマってスケート沼に落ちたり、今年も大変楽しませて頂きました。

 今年のイチオシ本は

アルテイシアさんの「離婚しそうな私が結婚を続けている29の理由」

 

雨瀬シオリさんの「ここは今から倫理です。」1~5巻

 

シオリーヌさんの「CHOICE 自分で選びとるための「性」の知識」

 

さとうみつろうさんの「0Rei 上 / 0Lei 下」

0Rei 上

0Rei 上

 
0Lei 下

0Lei 下

 

 

 興味があれば是非。

 アプリゲームだとアイナナ、スタマイも面白いですよ~~~~~~!!!シナリオがとても好き。あと今年見たアニメでハマったのはBANANA FISH、呪術廻戦、憂国のモリアーティ、ユーリ!!! on ICEですかね。今年は一年通して内田雄馬に熱心でした。SUKI

 

 来年はどんな1年になるのかな。とても楽しみ。皆さん、2020年お疲れ様でした。今年も大変お世話になりました。よいお年を。

 

 

 

趣味の領域外


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 劇場版「鬼滅の刃」無限列車編を観てきた。

 シンプルに面白かった。シリアスなシーンとギャグシーンのギャップも良かったし、テレビアニメから登場しているキャラクターたちの成長を感じて物語としても見ごたえのある映画だった。
 新たに登場したキャラクターもまた魅力的で、映像や演出も素晴らしく、まさに「これは映画館で観たい!」と思わされた迫力のある映画だった。

 私は数年前からアニメと声優さんが好きで、鬼滅の刃のアニメがテレビで放送されていた当時(去年の春夏)も、リアルタイムで見ていた。
 その頃はまさかここまで社会現象としてブームになるなんて思っていなかったし、アニメ好きの一人として純粋に面白い作品だなと思って見ていた。

 なんとなく空気が変わったな、と思ったのは、テレビでやたら「紅蓮華」が流れ出した頃か、それとも学童に通う子どもたちの口から鬼滅の話題が出るようになった頃だろうか。明確な時期は覚えていないけれど、去年の冬あたりからなんとなく、私が趣味の領域で楽しんでいたものが、世間一般に、ひいては職場の空気にまで流れ込んできた印象だった。
 とても、居心地が悪くなった、と思った。

 決してこの作品が悪いわけでも、社会的にヒットしブームを巻き起こしたことが悪いわけでもない。この作品の魅力が大多数の人々の心に刺さって、人気に火がついたのだろうし、テレビアニメはどの話数も面白かったし私も楽しんで見ていた一人だった。
 ただ、ここまで事が大きくなると、自分のプライベートの部分がおおっぴらにされたような、純粋に好きだった気持ちを軽んじられたような、そして”ただのアニメ”としては扱いきれなくなったような、そんな感覚がしてきた。

 鬼滅の刃という作品を見て、何をどう思うかは人それぞれ千差万別だろうが、それが子どもたちの話となると、私個人としてはモヤモヤすることがある。

 今回の映画に関して言えばレイティングにPG12が設定されている。これは、12歳未満(小学生以下)の鑑賞には成人保護者の指導や助言が必要なもので、性・暴力・残酷・麻薬などの描写やホラー映画などが対象となっている。

 今回の作品も、見ていてこれはグロテスクだな…と思う描写が多かった。しかしそれは今回の映画に限らず、深夜帯にテレビアニメとして放送していた時も同様である。それらは原作をリスペクトし、物語を最大限魅せるための表現だと思うし、むしろそういった表現や描写を今回の映画で改変せずに鬼滅の刃が持つ世界観や主人公たちが立ち向かっているものをより体感に近づけて製作してくださった製作陣に拍手を贈りたいほどだ。

 ただ、それを子どもたちが触れること、ないしは教育現場に持ち込むことはまた別の話ではないかと感じてモヤモヤしてしまう。
 これは私の考えすぎかもしれない、子どもたちを信頼できていないのかもしれない、それでも、大手を振って私はこの作品を子どもたちに薦めることはしたくない、というのが正直なところだ。

 少し前に話題になった、「アンパンマン」は幼児教育に適切か否か、という問題と似ている気がする。
 確かに悪事を働いたものに裁きを下すことは、社会の秩序を守る上で必要なことではあるが、誰もが裁判官になれるわけではない。この国で、法の下で裁きを下すにはそれ相応の知識と教養が必要で、且つ国や組織が定めた基準に達した者が公共の福祉やその事件に関わる全ての人の人権に配慮した上で行われる行為でなくてはならない。(憲法基本的人権の享有や適正手続の保障、刑事訴訟法の第1条など)
 それを、子どもたちが学習し理解するのは一体いつなのか?と思ってしまう。

 鬼滅の刃は鬼を退治する物語ではあるが、鬼だからといって全ての鬼が極悪非道というわけではない。現に主人公である炭治郎の妹は鬼になっても人間を守ろうとしている。また、テレビアニメシリーズに出てくる手鬼や響凱、累なども鬼になった背景を知ると胸が痛む。これまでに犯した残忍な行いが無かったことになるわけではないが、鬼にもそれぞれ鬼になった理由があり、人間であっても鬼のように極悪非道な者は存在する。そこがこの作品の面白いところだと私は思っている。
 また、この作品で私が一番好きなところは自分は何のために戦うのか、誰のために戦うのか、ないし自分は誰を守りたいのか、何のために守りたいのか、どんな方法で守りたいのか、その上で自分はどう生きていくのか、自身の誇りとは何か、そういうことを考えさせられるところだ。
 炭治郎、伊之助、善逸はもちろん、柱たちもそれぞれがそれぞれの信念を持って刀を手にしている。そして刀を振るうことは簡単なことではなく、相応の覚悟と鍛錬が必要なのだ。
 悪者を倒すことだけが正義というわけではないし、正義の反対はまた別の誰かの正義と言われるほど正義の定義は曖昧なもので、だからこそ慎重に扱わなくてはいけない部分だと思う。

 今回、私が特に心配になったのは炭治郎についてだ。彼は家族を惨殺され、大切な妹を鬼にさせられた少年だ。鼓屋敷編でも長男だから!とボロボロになっても戦っている姿に時代錯誤だな…と思ったものの、時代設定が大正時代なのでそこまで気に留めなかったが、今回の映画を見て余計になんでこんなに頑張っているんだろうこの子は…と思ってしまった。

 長男だから、家族のために、大切な人たちを守るために戦う炭治郎の生き方はそれはそれで良いのだけれど、必ずしもそれが正解というわけではない。
 正直私は炭治郎があんなに頑張って修行して、苦しくても辛くても耐え抜いて、どんな時も頑張って頑張って身を削って戦っている姿を見て、そんなに頑張らなくても良いのに、もう十分炭治郎は人を助けているよ…って思ったし、救われなかった部分よりも救われた部分に目を向けてほしいなと思った。
 これは完全に私のエゴなのだが、鬼滅の刃を見て、炭治郎に憧れた人たちみんながみんな炭治郎みたいにならなくていいんだよ、と思ってしまったのだ。

 確かに炭治郎は強い。剣士としての実力もそうだが、何より彼は精神面においてめちゃくちゃ強い。どんなにくじけそうな時でも、決して折れない心を持っている。そして心の底から優しい。炭治郎の強さは優しさから成り立つ強さだと思う。彼が周りを引っ張っているように、彼を支えてくれる存在がいてほしいと願ってしまう。
 そういう意味では、妹の禰豆子や伊之助、善逸がこれからも突っ走る彼を上手く止めて一緒に協力しながら戦っていってほしいなと思った。

 この作品を教育や保育の現場でどう扱うべきか、職場の先生方とも話したりしているが、現状何も言わずに傍観している形だ。
 子どもが興味を持つことを止めるのも違うし、かといって積極的に触れさせるのもまた違うと思う。でも子どもがあらぬ方向に解釈し、それで誰かを傷つけるようなことになるなら、最低限のことは事前に大人が助言するべきだし、子どもが見る前にまずは大人がこの作品が子どもたちにどう影響するのかを考えてから見せる(または一緒に見る)べきだと思うし、この作品に限らず、いけないと思ったらきちんと伝えていくことがこれからの子どもたちを守ることに繋がるんじゃないかと思う。表現が今の時代に沿っているか、それを見た当人が暴力的/性的なシーンをどう解釈するか、そして犯罪を犯罪として認識できるか、精査する必要があると思う。

 なんでも与えてはい終わり、あとは自分で考えてね、ではあまりにも無責任ではないだろうか。そこは子どもを育てる社会の一員としての大人の責任だと思う。
 父親にそれとなくこういう話をしてみたところ、「俺が子どもの頃も北斗の拳とかみんな見てたし心配ないよ」と返されてしまい、あぁ、こういう人たちがいるからエロ本やAVを性の教科書だと信じて性犯罪を犯す人が絶えないんだなと思った。

 私は大人になってからアニメにハマり、今でも趣味の一つとして楽しんで見ている。しかしそれらは児童向けか?と言われるとそうでないものがほとんどだと思う。
 例えば、鬼滅の刃と同じ週刊少年ジャンプで連載されていた約束のネバーランドや、同じくジャンプで今も連載中の呪術廻戦を子どもたちに薦められるか?と聞かれれば絶対にNOだ。約ネバはこの冬に実写映画化するが、鬼の表現やヒトが捕食される描写はどうするのだろう?と思っている。

 アニメと一口に言っても様々な作品がある。1クールにだいたい40~50作ほどが並ぶ世界で、多種多様なジャンルのアニメが放送されている。
 そのほとんどは深夜帯に放送されているし、もはやアニメは大人が楽しむためのコンテンツと言っても過言ではないだろう。それを、区別なく子どもたちに見せて良いのかどうか、特に子どもと関わる者はよく考えなければいけないなと日々働きながら痛感している。

 子どもたちにとって、何が最善の利益か。保育の原理を常に忘れず意識したい、と改めて思った私なのだった。



追記(※以下壮大なネタバレ)

 映画は本当に面白かったし、声優陣がめちゃくちゃ素晴らしいお芝居をされていて感動しました。ラスボスにcv石田彰が出てきた時はぎぇぇぇえええええ!石田彰ァァァァ!とリアルに叫びそうになったのをぐっと堪えた私偉い………石田彰様のお芝居を映画館の上質な音響で聞けて大変良かったです……有難うございました。至福の時間でした。
 声優さんも大好きなので今モブから江口拓也の声がしたが!?とかいちいち興奮してしまって泣けなかったな……平川さんのお芝居も最高だった……これが応援上映だったら平川さんと石田さんのところでスタンディングオベーションしてた。

 アニメ2期全力で待ってますよ〜!?!?えのじゅん!!!!!!!!!(千寿郎出るよね!?!?!?)